第14話 打倒・ノックダウン

 

 青コーナー側に続く扉の前に宮田、佐々田、中屋、オイラの4人は入場の時を待っていた。やがて場内から派手な曲調の音楽が鳴り出した。扉の前に立っている係員が、耳に付けたインカムで内部と連絡を取り合っている。OKの支持が来たのか?係員が宮田に目配せして扉を開けてくれた。嵐のように鳴り響く音楽の中を、先頭は宮田、その後ろを中屋、佐々田、そしてオイラが続いた。宮田は中屋のバスタオルを首にぶら下げている。佐々田はワセリンや綿棒、止血剤の入ったセカンドバッグを持っている。オイラは水の入ったボトルを持って花道を入場した。目まぐるしく回転するスポットライトが眩しい。中屋を中心に当たっているので、最後尾のオイラには誰も注目していないのだが、普段人前に出る事が無いオイラは緊張した。着飾った若い男女がこちらを見て笑っているような気がした。ライトが眩しくて、場内の様子は良く分からないのだが、立ち見の観客で一杯だった。「頑張れ〜!」という声が聞こえた。中屋の定時制の仲間なのだろうか?さっきはステージ隅にあったリングが中央部に移動している。電動式で動くようになっているらしい。リング内には190センチ近いタキシード姿の黒人が英語で何か叫んでいる。何と言っているのか勉強の出来ないオイラには分からないのだが、どうやら中屋の紹介をしているらしい。今日のリングアナはいつもの衣笠さんではないようだ。先頭の宮田がロープの間に自分の体を入れて中屋が入りやすいように隙間を作ってやる。佐々田はオイラからボトルを取り、中屋にうがいをさせた。うがいを済ませた中屋は小さく「よしっ!」と叫ぶと、ロープの間をくぐってリング内に入った。オイラは中屋のマウスピースを洗って宮田に渡した。リング内に入った中屋は佐々田の指示で屈伸、軽くシャドウでワンツーをしている。照明が落ちて音楽が変わった。赤コーナーから対戦相手が入場してくるのだ。
 会場入りした時に貰ったチラシに出場選手の紹介が小さく載っていた。西神勇次、21歳。横浜市鶴見区内にある京浜鶴見ジム所属。2ヶ月前にデビューして、1戦1勝(1KO)。昨日、中屋が言っていた通り、茶髪で悪そうな感じの選手だった。まだデビューしたての3回戦なのにガウンを羽織っている。背中に“喧嘩上等”と刺繍が入っていた。色黒でキツネ目。気の強そうな容貌だが、顎が細いから案外打たれ弱いかもしれない。西神の入場は派手だった。花道に姿を現すとチンピラみたいな風体の男たちやキャバイ女たちの声援が飛ぶ。西神の応援団は20人はいるようだ。リングに入るとたくさんの紙テープが飛ぶ。まるで先日の三沢の試合のようだった。しかし三沢は華やかなスター候補生だが、この西神は違う。ガラの悪そうな感じはどうみてもスターというよりもヒール(悪役)だ。本人もそれが分かっているのだろう。リング中央に呼ばれてレフェリーの注意を聞く際、露骨に中屋にガンを飛ばして来た。大抵の選手は無表情で睨み合うものだ。先に目を逸らした方が負ける、なんて意見もあるが現実にはそんな事は無い。西神のようにガンを飛ばす選手もいるが、最初から下を向いて目を合わさなかったり、レフェリーの方を向いている選手もいて様々だ。中屋は西神の飛ばして来たガンにも怯むことなく、無表情に睨み返していた。
 注意が終り、各自自分のコーナーに戻る。宮田は中屋の口にマウスピースを入れ、「ガードを忘れるな!」。中屋は小さく頷いたようだった。試合開始のゴングが鳴った。ファーストラウンドはお互いにグローブを合わせてから戦闘開始だ。両者とも右利きのため、左足が前のオーソドックススタイルだ。中屋は宮田のアドバイス通り、両手を顎の高さまで上げている。対する西神はガードも糞もない喧嘩ファイト。強引に左右のパンチを振り回して突っ込んで来る。中屋は両手でしっかり顔面を守りながら、右のローキックを西神の左足に返す。中屋はガードを固めながら、左右のローキックを西神の左足に叩き込む。前足を潰す作戦らしい。片足が潰れれば、腰の入った蹴りやパンチが出せなくなるばかりか、動きが取れなくなる。終いには立っているのも苦しくなってしまう。しかし中屋のローキックには一発の破壊力がなかった。1ラウンドで西神の足を殺すのは難しい。嫌でも後半勝負になる。西神はとにかく強引にパンチを振り回してきた。1ラウンドで勝負を決めるつもりなのか?2ラウンド、3ラウンドへのスタミナ配分など考えていないような攻撃だった。キックボクシングなのに蹴りがない。中途半端なローキックを数発出しただけで、後は全てパンチのみの攻撃だった。ディフェンスも何もない。とにかくパンチ、パンチ、パンチだ。おそらく奴の1勝1KOというのはこのパターンで強引に倒したものだろう。中屋は、西神がパンチを振るう時に前足に体重がかかる、そこを狙ってローキックを的確に決めていく。西神が色黒なので目立たないが、左足の太股は赤くなってきているはずだ。しかし基本もクソもない西神のラフファイトに観客は沸いた。特に西神の応援団らしい連中は、西神がパンチを振るうたびに大騒ぎだ。中屋はブロックしているのでクリーンヒットはしていないのだが、こうも西神寄りに騒がれると、見た目の印象が良くない。レフェリーやジャッジの技量が低いと、採点に影響してくるかもしれない。西神の応援団から黄色い声援が飛び、中屋に向って口汚い野次が跳んだ。執拗にローキックを返す中屋に「打ち合え〜!」、「ビビってるんじゃねぇよ〜!」。別に中屋はビビっているわけではない。相手のパンチに合わせてローキックで足を殺していくのは、パンチの上手い相手に対する定石のようなものだ。それに中屋はあまりパンチの上手い方ではなかった。スパーリングでも相手のパンチを食らってピンチになる事が何度かあった。特に打ち合いになると、ムキになってしまう悪い癖があったのだ。ムキになると、自分のパンチを当てる事ばかりに注意が行って、ガードがおろそかになってしまう。その度に佐々田に注意されていた。中屋がローキックに徹しているのは、佐々田の指示を忠実に守っているだけの事だ。宮田と佐々田は冷静にローキックを決めている中屋に「ナイスロー!」、「それで良いぞ!」。中屋が短気を起こして、西神のパンチに付き合わないように声を飛ばしていた。
 1ラウンドも残り30秒を切る頃になると、西神のスタミナが切れ掛かってきたのか?それともローキックが効いてきたのか?パンチが単発気味になり、中屋にクリンチしてくるシーンが多くなった。中屋は首相撲で西神の首をロックすると、ボディに膝蹴りを叩き込む。数発出した膝蹴りの一発が西神のわき腹に当たった。西神の腰が落ちた。ダウンか?西神の応援団から「西神さ〜ん!」黄色い声が飛んだ。女の声に奮起したのか?西神は中屋にもたれ掛かるようにして踏ん張った。中屋は西神を振りほどくように突き放すと、左右のフックで打ち合いに行ってしまった。「ヤバイ!」、オイラの横で佐々田は小さく叫んだ。中屋の左フック、これはブロックされた。右フックは当たったが、クリーンヒットはしなかった。右フックの後、返しの左フックを打ちに行った時、西神も打ち返してきた。左フックの相打ちだが、西神のパンチはカウンター気味に中屋の顔面にヒットした。押されたような感じで中屋が尻餅をついた。ダウンである。レフェリーが西神をニュートラルコーナーに行くように指示、カウントが進む。バテ気味の西神の左フックだったが、倒そうと意気込む中屋のパンチよりも、脱力した状態から打ってきた西神のパンチの方が先に当たった。しかも倒そうと焦って打ったために、中屋の右のグローブは顎を守っていなかった。おまけに少しでも強いパンチを打とうと、半歩踏み込んだ左足が一瞬浮いていた。そこに西神の左フックが当たったのだ。片足でいた瞬間にドンッと押された形になったために、尻餅を付いてしまった。左足が浮いていたのは僅かコンマ1〜2秒である。西神が狙って打ったものではない。彼にそんな技量があるとは思えない。このタイミングで当たったのは偶然である。しかしダウンはダウンだ。尻餅みたいなダウンなのでダメージはない。しかし西神の応援団は大騒ぎだ。中屋が立ち上がって、カウント6でファイティングポーズを取ったところで、1ラウンド終了のゴングが鳴った。