第12話 デビュー戦の男

 

朝5時、いつものようにロードワークだ。しかし今日からはチョット違う。試合をすることになった。初めての試合だ。初心者クラスとはいえ、真剣勝負には違いない。勝敗がつくのだ。スパーリングとは訳が違う。相手はどんな奴なのかは分からないが、それなりに動いてキックやパンチを打って来るはずだ。昨夜から、どうも息苦しい。緊張しているのだ。試合を考えると「恐怖」という重圧に押しつぶされそうになる自分を感じた。初心者クラスだし、プロ選手でもない。誰もオイラなどには期待していないのだから軽く考えればイイのだが、相変わらずの気の弱さからそう思う事が出来なかった。そんな不安を解消するには勝つしかない。それにはとにかく練習するしかないのだ。朝のロードワークも、いつもはダラダラ走って汗をかく事に満足していたのだが、今日は少しピッチを早くした。坂道はダッシュだ。恐怖心を払いのけるようにとにかく走った。昼間学校に行っても勉強は身に入らなかった。元々勉強は嫌いだし頭も良くないから、成績は悪かった。普段も授業中は大人しくしているのだが、教師の話など退屈で聴いているフリをしているだけだった。試合の事を考えると、益々授業に身が入らない。「早く練習に行かなければ・・・」、頭の中はそればっかりだった。
 学校が終わるとジムに直行した。夕方4時頃。この時間練習しているのは殆んどが学生か、夜間や早朝に仕事をしている連中だ。10人くらいの男たちがジムワークしていた。中屋はサンドバッグを蹴っていた。体操をして隅でバンテージを巻いていると、蹴り終えた中屋が笑顔で「こんちは。」声をかけられた。月末にプロデビューしようという中屋は怖くないのだろうか?初心者クラスに出るオイラはビビっているのに、プロのリングに上がろうという中屋は良く平気でいられるものだ。ジム隅の壁に黒板があり、試合やスパーリング、イベントのスケジュールが書き込んである。黒板の脇にワープロで書かれたA4サイズの紙が貼ってあった。見ると、来月オイラが出場するグローブ空手の大会の参加要項だった。
 2月11日(土)建国記念日。場所は新宿区高田馬場にある新宿スポーツセンター第1武道場。当日は、AM9時半・計量、ドクターチェック。11時半・試合開始と書かれていた。体重別で
軽量級(60キロ以下)、軽中量級(65キロ以下)、中量級(70キロ以下)、重量級(85キロ以下)に分かれて行われる。試合時間は通常は3分なのだが、初心者クラスは2分。キック連合主催のグローブ空手の大会は腰上8本ルールだ。つまり1試合に腰から上への蹴りを8本以上出さなければ減点となってしまう。オイラの出るクラスは試合時間が短いので、8本ではなく4本だ。2分の間にミドルやハイキックを合わせて4本以上、出さなければならない。これは蹴り技の技術向上を狙った特殊なルールだ。勿論、ローキックもOKなのだが、ムエタイではローよりもミドルキックの方がポイントが高い。日本人選手の多くは手足が短く、体も硬い。フルコン空手の影響でローキック主体の選手が多い。それではムエタイだけではなく、海外のリングで外人相手に戦っていくには苦しい。このルールは賛否両論あるが、世界で通用する若手育成を考慮して考えられたものだった。初心者クラスの試合はフレッシュマンクラスと書かれていた。出場資格はジムに入門して1年未満、空手やボクシング等、打撃系格闘技の未経験者のみ。この日はこのフレッシュマンクラスと並行して、エキスパートクラスと書かれている通常の試合も行われるようだ。用紙を見ていると宮田がやってきた。オイラの体重が60キロ前後なので、軽量級に出場申し込みをしたそうだ。当日はオイラの他に、夜に来ている練習生が2人、エキスパートクラス軽中量級に一人、同じくエキスパートクラスの重量級に一人出るそうだ。キックのアマチュア大会とはいえ、一応は空手という名称が付いているので、試合は空手衣着用で行われる。オイラは空手衣など持っていない。ジムで使っていたのがあるので借りる事にした。「確か物置にあったと思うな。後で出してくるから、自分で洗濯して使ってくれ。」宮田から試合の説明をされると、「ああ・・・やっぱりやるのだな。」。心臓がバクバク鳴っている。昨日ほどではないが、血の気が引いた。しかしとにかくやるしかない。
 リングに入ってシャドウを始めた。いつもは漫然とやるのだが、試合に備えて今日は目の前に相手がいると想定しながら動いてみた。試合をイメージして蹴りやパンチを出す。腰上4本か、左ミドルキックを連続して4本出してみる。蹴らないと減点になるから、最初のうちにまとめて蹴った方が良いかもしれない。しかしオイラの得意なコンビネーションは左ジャブから右のローキックだ。これは入門当時、佐々田から初めて教わったパターンだ。毎日、サンドバッグにこればかりを打ち込んできた。おかげで右のローキックの破壊力には多少の自信はある。このローだけは、蹴った時の感触が左の回し蹴りと違うのだ。蹴り足が空気を切り裂き、体重が乗ってサンドバッグに食い込む感じがするからだ。動いていると、キックミットを持った宮田に声をかけられた。「ミットやるぞ。」キックミットを蹴るのは初めてだった。試合の決まっている選手や三沢のような期待されている選手しか持ってもらえないからだ。タイ製の大きなミットに左右の回し蹴りを、宮田の支持通りに蹴り込んで行く。サンドバッグと違い、自分のペースではないから恐ろしく疲れる。スパーリングと同じくらいスタミナを消費した。1ラウンド目は左右の蹴りを単発で蹴っていたのだが、2ラウンド目は宮田の支持も厳しくなった。左右のミドルを連発で蹴らされた。左を連続して3発。次は右を3発。左の前蹴りから右のミドル。ワンツーパンチから左ミドル。ガードが下がってくると、容赦なくミットで叩かれた。2ラウンド目の途中から息が切れだした。毎朝、走っているとはいえ、半年前までモヤシっ子だったオイラではまだ2ラウンド持たない。蹴りやパンチに力が入らなくなる。その度に宮田に叱咤される。ヒョロヒョロ、ノロノロした蹴りやパンチでは、クリーンヒットしても相手にダメージを与える事は出来ないだろう。2ラウンド終了のゴングが鳴った時は、立っているのもやっと、という状態だった。「これが2ラウンド出来るようになれば、プロデビュー出来るよ。」宮田は涼しい顔で言った。これが2ラウンドか・・・いや実際の試合はもっとキツイはずだ。中屋はこれを毎日やっているのだ。スゴイとしか言いようがない。バテたけど、キックミットを蹴るのは気持ちが良かった。1ラウンド目は初めて蹴るので、サンドバッグとは感触が違い、力のかけ方が分からずに戸惑った。しかし2ラウンド目は何となく感触が掴めてきた。キックミットはサンドバッグよりも蹴りやすいのか、思い切り体重が乗せられた。その分、蹴り足にスピードとキレが出る感触があった。この日から週に2〜3度ペースで宮田がミットを持ってくれるようになった。ミットのない日は、他の練習生を相手に蹴りありでマスボクシングをやった。ミット練習をするようになって、蹴りに確実に切れが出てきた。腰が入るだけではなく、蹴り足のスピードが増し、気持ち良いくらいサンドバッグに蹴りが喰いこむ様になった。今までは体重は乗っているのだがブーン、という感じだったものが、ズバーン!という爆発力を伴うようになって来たのだ。クリーンヒットすれば同じ体重の人間なら倒せるのではないか、と自惚れるようになった。勿論、実際はそんな上手く行く事はないのだが、少しばかり自信が付いてきたのは確かだった。
 1月下旬、今週末には中屋のデビュー戦がある。オイラは観戦に行くつもりだった。三沢の試合のときの中屋ではないが、自分の試合に備えてオイラも雰囲気に慣れておきたい。オイラの出るのはアマチュアの初心者クラスだが、少しでも場慣れしておきたかった。しかし試合会場は後楽園ホールではなく、芝浦のディスコ。オイラはそんなオシャレな場所に行った事がない。会場の場所、どうやって中に入れば良いのかも分からない。佐々田に尋ねたら、当日は宮田の車に便乗して行くらしい。この日はいつもセコンドの手伝いをしている33歳のプロ選手・木村は用事で来られないらしい。応援に来るのなら、代わりにセコンドの手伝いをするように言われた。セコンドなんて、オイラはそんな責任重大な仕事をした事がない。断ったのだが、インターバルの時に椅子とうがいの水を出せば良いから、と言われた。仕方なくOKしてしまった。三沢の試合の時、手伝っていた木村を思い出した。椅子と水を出すだけだが、それでも慣れた感じだった。あんな事、オイラに出来るのか。自信ないよ。
 今回の試合は前日計量だ。27日金曜日の夕方に日拳会館で行われるらしい。日拳会館というのは、江東区扇橋にある扇橋建設という中堅の建設会社のビルの1階と地下1階にあるジムである。試合と同じサイズのリングやサンドバッグの他、ウェイトトレの器具も充実している。これだけの施設と広さを誇るジムは都内でもここくらいのものだ。会長はキック連合のボスで、馬場という60代の恰幅の良い男だった。扇橋建設というのは馬場が経営する会社だ。以前、格闘技雑誌のインタビュー記事で読んだのだが、馬場は若い頃、空手をやっていたらしい。会社経営で忙しく、志半ばで挫折してしまったが、その頃の夢が忘れられないのだろう。キックに携わる仕事がしたかった。80年代に入り、バブル景気で建設会社も余裕があったのだろう、スポンサーとして名乗りをあげて複数のキック団体を統一、キック連合を立ち上げた。後楽園ホールでダフ屋を締め出したり、芝浦のディスコでキック興行を開催したりというのは、馬場のアイディアらしい。
 27日の夕方にジムに行くと、佐々田に連れられて計量に行った中屋がいた。300gアンダーでパスしたらしい。帰りに佐々田に食事を奢ってもらったそうだ。計量の時に対戦相手を見た。会話もしなかったし、目も合わさなかった。横目で相手の体格や調子を観察した。身長は172〜173センチくらいか、170センチの中屋よりも数センチ背が高かったそうだ。茶髪でキツネ目のワルそうな感じの奴だったらしい。「ああいうタイプの奴って嫌いなんですよ。」中屋はボソッと呟いた。明日はセコンドの手伝いをする、と言ったら「心強いです。お願いします。」そう言って中屋は帰って行った。佐々田から、試合開始はPM7時から。6時前には会場入りするから5時までにジムに来るように言われた。明日は中屋にとって記念すべきデビュー戦、オイラにとってもセコンドデビューだ。失敗しないように気を付けなければ。