第11話 堂々たるオタク
月曜日朝5時、いつものように起きてロードワークだ。走りながら思い出すのは、土曜日に後楽園ホールで観た試合だった。初めて観た生のキックは迫力があった。キックやパンチが激しく交錯し、顔面にクリーンヒットすると血や汗が飛び散る。実力が拮抗していると、選手同士の意地のぶつかり合いだ。壊しあいのような試合に観客が沸く。三沢に倒された小橋はどうしているのだろうか?ワンサイドでやられたから、きっと悔しくて仕方が無かったはずだ。負傷した傷も決して軽くは無いだろう。派手に倒されて辞めてしまう選手は多い。怖くなるのか?それとも自分の実力を思い知らされて、早々に見切りを付けてしまうからか?もし自分が小橋の立場だったらどうするだろう?分からない。一度も真剣勝負のリングに上がった事の無いオイラには、想像も付かない事だ。
三沢の試合の後に行われた5回戦は、全てがタイトルマッチだっただけに、どれもハイレベルな内容だった。フライ級〜ミドル級まで全6階級のタイトル戦。フライ級とフェザー級は判定だったが、バンタム級とライト級、ウェルター級、ミドル級はKO決着だった。ライト級以外は全て王者がタイトルを防衛していた。印象に残ったのは、王座が移動したライト級のタイトルマッチだった。新王者は19歳。新進気鋭のタイガー秋山が30歳のベテラン王者・福本栄一を4ラウンドでKO、タイトルを奪取していた。タイガー秋山は格闘技雑誌が最近プッシュしている新鋭。高校時代からフルコン空手をやっていて、有名団体主催のジュニア全国大会で優勝した経歴を持つ。高校卒業後は鳴り物入りでキックデビュー。僅か5戦目でチャンピオンになった。これはキック連合では王座に就いた最短記録らしい。敗れた福本選手は、沢村忠が引退した1977年にデビュー。この頃は人気も下降期で団体が四分五裂、定期的な興業も少なくなる「冬の時代」に突入していく頃だった。78年、6戦目で5回戦に昇格したものの団体が消滅。試合の機会をなくした福本は単身タイに渡る。ラジャダムナンやルンピニー・スタジアムのランキングにこそ入れなかったが、バンコクを主戦場に活躍してきた。キック連合が旗揚げした85年に帰国。2年前、デビューから30戦目で王者になった苦労人だ。王者になっても精力的に試合をこなし、土曜日の秋山戦が5度目の防衛戦だった。ベテラン王者に若い挑戦者が勝利、典型的な新旧交代という図式だ。ライト級ということは三沢と同じ階級。三沢は土曜日の試合で5回戦昇格だから、近い将来、タイガー秋山に挑戦する事になるだろう。
夕方、学校帰りにジムに行った。7〜8人の練習生が汗を流していた。中屋は既に練習を始めていた。土曜の試合に刺激されたのだろう、佐々田の持つキックミットを凄い勢いで蹴りまくっていた。月末のデビュー戦に向けて、良い感じでテンションも上がっているようだ。宮田は留守のようだった。更衣室で着替えて、ジムの片隅にある事務机の横でバンテージを巻いていると、机の上に置いてあるスポーツ新聞に目が行った。格闘技のページには土曜の試合の記事が載っていた。5戦目で王者になったタイガー秋山の記事が中心だった。秋山の全試合記録が出ていたのだが、見覚えのある名前が載っていたのだ。小橋健太郎、あの日の前座で三沢にKOされた選手だ。小橋は秋山の3戦目の相手だった。そういえばパンフレットに書かれていた小橋の戦績は3勝1敗(3KO)。この1敗は秋山に負けたものだったのか。小橋は秋山に判定負けだが、三沢は2ラウンド2分34秒でKOしている。単純に比較は出来ないが、秋山が判定まで行った選手にKO勝ちしているというのは、三沢本人は勿論、宮田や佐々田にとっても心強い事実だろう。秋山に敗れて王座を陥落した福本は、引退を表明したらしい。タイトルを4度防衛、団体を代表する名王者として活躍した福本も30歳。ずっとキック主体の生活だったはずだから、定職に就いて第二の人生を送るのも良いかもしれない。
中屋のミットが終わったので、リングに入ってシャドウをしていると、宮田が現れた。宮田はリングで動いているオイラを見つけると「体重、今何キロ?」。練習終わって60キロくらい、と答えると「試合してみない?」。えっ、と思った。オイラは入門してまだ半年だ。それに選手希望で入ったわけではない。最近は、中屋や他のプロ選手たちと練習していても、何とか付いていけるようになった。しかしまだリングに上がれる実力があるとは思えない。何より気の弱さだけはどんなに練習しても治るものではなかった。宮田から「試合」と言われて、血の気が引いていくのが自分でも分かった。顔が真っ青になっていたはずだ。宮田は青くなっているオイラを見て「プロの試合じゃないんだ。来月、アマチュア大会があるんだ。」キック連合が底辺拡大を狙って定期的に開催しているアマチュアのグローブ空手の大会、最近はレベルが上がって来たために、初心者が参加しにくくなってきた。そこで格闘技経験のない、入門1年未満の人間を対象にしたクラスの試合も行う事になったらしい。体重別、初心者クラスなのでヘッドギア着用、試合時間2分のトーナメント戦だ。
試合どころか、ケンカ一つしたことのないオイラはビビッた。ビビっている事を宮田に悟られたくない、と思った。それは男として僅かに残っているプライドのせいだろう。しかし青ざめているオイラを見ればビビっているのは一目瞭然。ましてや宮田はジムの会長として色々な人間を見てきたから、オイラの心情などはお見通しであったはず。どうしよう、やっぱり断ろうか。しかし断ったら、宮田や佐々田に見捨てられてしまうかもしれない。友達もなく、誰にも相手にされないオイラにとって、ここしか居場所がなかった。最近は中屋の他にも、ジムの連中と会話をするようになった。断って居づらくなったら、また孤独なオタク暮しに逆戻りだ。逃げちゃダメだ・・・逃げちゃダメだ。そんなオイラの心を後押しするように、佐々田が声をかけてきた。「毎日練習しているのだから、試しにやってみたら?初心者クラスだから、強い奴は出ないよ。」中屋にも「勝てますよ、頑張りましょうよ。」と言われた。仕方がない、やってみるか。オイラは宮田に、やります、と言った。声が上ずっていた。皆、オイラがビビっている、と思っているのだろうな。そんな思いを払拭するには、勝つしかないのだ。
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