第8録 浜田光夫スペシャル・トーク 2011年1月15日土曜日。この日は12時から新百合ヶ丘にある川崎市アートセンター3Fコラボレーションスペースで浜田光夫さんのスペシャルトークイベントがあるので出撃! 11時10分に小田急線新百合ヶ丘駅に到着。この辺もすっかり変わってしまった。70年代前半頃などは何もない造成地で、ウルトラファイトが撮れそうなロケーションだった(笑) 。80年代前半頃に当時の友人がこの辺りに住んでいて何度か来たっけ。その頃は段々と家やビルが建ちはじめて、数年前に仕事で来たときは「もうウルトラファイトは無理だな。」 アートセンターは駅から徒歩約7〜8分。10分はかからないので便利。HPによると2007年にオープン。小劇場や上映ホールがあって立派なつくり。日活使いとして浅草で腕を磨いたオイラにすると、映画はこういうキレイで落ち着いたトコで観るのが理想だね。 11時20分会場到着。この日は10時から『上を向いて歩こう』 が上映、映画は何度か観ているのでパス。トークイベントから参加。 11時40分開場。上映会場から出てきたお客さんは、あの時代に浜田さんと同じ時代を過ごした人ばかり。当然といえば当然か。オイラのようなオタク中年も数人いたけど、若い客は見かけなかった。映画を観たお客さんの後に入場。何とか最後尾の席に座る事が出来た。 ★ ★ ★ 司会はお馴染み佐藤利明さん。佐藤さんに続いて浜田光夫さん登場。灰色のタキシード風のファッションで身を固めたお姿で登場。おお、霧島五郎だ!! (以後、赤字は浜田光夫さん、桃色字は白鳥あかねさん、黒字は佐藤利明さん) 開口一番「皆さんこんにちは、木村拓哉です。」 場内爆笑。浜田さんは佐藤さんを「映画の生き字引」 と紹介。 「(佐藤さんは) スゴイですよ。私の知らないのまで、あなた出ていましたよ、なんて言うのです(笑) 。 私は昭和35年に日活『ガラスの中の少女』 で、吉永小百合さんと一本目からやっていました。若杉光夫監督に可愛がってもらって、オーディション受けたら残ったのが僕と吉永小百合さんだったのです。心中モノで哀しかったです。10月頃の撮影で最後のボートでの心中シーンで映るのは吉永さんだけなので、僕は焚き火に当たっていました。でもなかなかOKが出ない。それでも彼女は根性があるというか、負けん気が強いのか。15歳の少女が「大丈夫です。」 といって撮影していました。でも終わったら吉永さんは失神してしまったのです。みんなであわてて介抱するので、僕も支えようとしたら「お前は良いから」 と言われてしまいました。ツイてないです(笑) 。」 小百合さんの父親役が信欣三さんで、出来たばかりの丸の内線四ッ谷駅で会うシーンがありました 「そうそう四ッ谷駅でね。彼女との出会いがあって、いろいろあって最終的に大人は分かってくれないということになってしまう。」 小百合さんはお父さんに純潔を疑われて、純潔のまま死んだ方が良いんだ。そういうロジックなんです。良い台詞があって「1人ずつ死んでも心中になるのかしら」 これが冒頭とラストの小百合さんのみが映るシーンに繋がるんです。 「良くご存知ですね。私も知らなかった。あなたが撮ったんじゃないの?(笑)」 この『ガラスの中の少女』以後、『泥だらけの純情』 や舟木一夫さんの『夕笛』 等、心中モノが流行りました。 「2人の恋は清かった、ですね(笑) 。」 この次の『美しき抵抗』 では小百合さんは歌いませんが、浜田さんは歌を歌っています。 「(『美しき抵抗』 では) 小田急線の喜多見駅でしたね。そうそう歌うんですよ。当時は裕次郎さんやアキラさんのアクション映画の他に白黒の添え物映画がありました。白黒で高い役者は使えない。一本付けときゃ良いや。それが『美しき抵抗』 も含めて地味に続けていたら『キューポラのある街』 になって、アクション、純愛、社会モノと確立されていきました。」 浜田さんと小百合さんは純愛コンビでしたね。 「そうです。純愛ですよぉ(笑) 。一年で三日も逢わない日はなかったです。」 浜田さんの日活作品は74〜75本。そのうちの44本くらいは小百合さんの映画です。 「(しみじみと)それぐらい作品を重ねていたんですね。そうですか。」 『上を向いて歩こう』 今日ご覧になってどうでした? 「あれはね、やっていたのは実は(私ではなくて) 孫なんです(笑) 。それぐらい若い。あれ18歳。九ちゃんと僕の話だったけど、(高橋)英樹くんとか小百合さん、渡辺トモコさんとかいて豪華でした。」 話もかなり盛りだくさんでした 「あの頃は九ちゃんも忙しくて、九ちゃんのスケジュールに合わせての撮影で、終わったら一杯行こうかという状況ではなかったです。だから(撮影時は) あまり大きなエピソードはなかったです。でも九ちゃんという人は、ブラウン管の通りの人で人なつっこい笑顔で、芝居も上手で、2歳年上だったのですが、同級生のような感覚でよく遊んでもらいました。ウエスタンカーニバルでのビラビラの衣装を貰ったりして嬉しかったですねぇ。彼とは非常に気が合ったもんですから、新宿でロケがあった時の事です。休み時間に二人で三越のペット売り場に行って、オウムに向かいにある「伊勢丹、伊勢丹」 と3日がかりで教え込んだんです。その後に(ペット売り場) に行ったら、そのオウムは置いてありませんでした(笑) 。」 そのエピソードが『ひとりぼっちの二人だが』 で鳩を飼うエピソードに繋がるのでしょうね。 「『上を向いて歩こう』 ではラストで九ちゃんとの喧嘩のシーンが大変でした。夜中にくんずほぐれずで最後にペンキを被るんです。もうあれが嫌だったですね。撮影が終わっても取れないったらありゃしない(笑) 。」 監督が豪腕・舛田利雄さんですからね。 「あの監督は豪快で、可愛い面もあるんですけど…何本かご一緒しました。」 舛田監督は『太陽は狂ってる』 の浜田光夫さんを前提に『上を向いて…』 を作ったそうです。 「そうだったんですか。あれは普通の学生役だった僕が、ちょっとしたボタンのかけ違いから川地民夫さんのチンピラと知り合って、母親に電話しても相手にしてもらえなくて、転落して破滅するという、あれも好きな作品です。」 あの『太陽は…』 は壮絶なラストになるのですが、舛田監督はあの映画の浜田さんを前提にして『上を向いて…』 を作ったんです。だから歌謡映画にしてはハードな展開に驚かれた人も多いと思うのです。ここまで追い詰めるか、という。 「高度成長期の落ちこぼれ、という部分で、私は『ガラスの中の少女』 の職工から、チンピラ、漁師、百姓。あんまり良い所の坊ちゃんをやっていない(笑) アウトロー予備軍ですね。このまま行くと破滅する。そこを吉永さんの存在に救われる。吉永さんとは本当にいろんなのをやりましたね。(吉永さんは) 今はシャープのCMですよね。お元気ですよね。」 『赤い蕾と白い花』 というのもありましたね。 「主題歌は大ヒットした『寒い朝』 でしたけど、公開の時は季節が寒くなくなっちゃって、だからタイトルは『赤い蕾…』 になったんです。でも小百合さんはビクター。僕が裕次郎さんと同じテイチクで所属レコード会社が違っていたから、映画は一緒なのに(二人で) レコーディングする機会がなかったです。歌もこちらはテイチク路線で男っぽい内容。映画と全然違うので売れるワケありません(笑) 。」 昭和40年代に入ると『青春ア・ゴーゴー』 とかグループサウンズになりますね。 「やりましたねぇ。『青春ア・ゴーゴー』 。スパイダース、日活ヤングアンドフレッシュ。和田浩治とか…」 杉山さん、木下さんとか 「よくご存知ですねぇ、あなた(爆笑)」 最初は職工からでしたけど、(昭和40年代に入って) 人々の生活水準が上がっていくと、浜田さんの役も大学生、医学部の研究生。『青春のお通り』 では当時珍しい声優役でチンパンジーの声をやっていましたね。 「良く知ってますね!(笑) 面白かったんですよ、あの映画は。あれシリーズでしたね。小百合さんがお手伝いさんで。」 私の世代では(浜田さんは) アイアンキングの霧島五郎なんですよ。 「アイアンキング! 結局あの頃はTVの時代になってきていました。昭和39年、東京オリンピックでTVが急成長して、あれが斜陽の始まりでした(しみじみ) 。」 そのTVのCMに小百合さんが出ていらっしゃる(場内爆笑) 「そのCMが一番オイシイんです。あんまり出なくても時々CMに出るだけで「あーいつまでもキレイだね。」 って言われて、でシャープってね(笑) ああいうのみんなやりたいんですよ、私もね(爆笑) 。 でもあの人も日活時代の青春、純愛路線のイメージで売っていたから、映画が衰退して悩まれたそうですよ。でも市川昆さんとかからオファーが来て挑戦して、それで今があるんです。 私には何もないんです(笑) 。私は舞台ですかね。「こまつ座」 でやった井上ひさしさんの脚本が遅くてね〜(笑) 。6月にホンが出来るから9月の顔合わせ、ホン読みはしっかり出来るっていうんですけど、8月に一枚二枚、って出来上がる。9月になっても半分しか出来ていない。10月の初演に間に合うの? 次の日、井上ひさしさんが来て、「今までお渡ししたホンは無いことにしてください(笑) 」 それで出来てきたのを見たら、最初は新聞記者の役だったのが、今度のは精神科医になっているんです。専門用語とかあるから憶えにくくて仕方ない。でも頑張って覚えましたよ。」 井上ひさしさんといえば、『父と娘の歌』で浜田さんは音大生でした。あの中で小百合さんがひょっこりひょうたん島を歌う場面がありました。他に『炎の第五楽章』 では浜田さんは歌だけでなく楽器もおやりになっていましたね。今日の『上を向いて…』 でもドラムを叩いていましたし… 「あれも苦労しました。叩いているのは本職の方でそれに合わせてやるのですが大変でした。僕は小学生の頃にバイオリンをやっていたので、『炎の第五楽章』 のときは指を合わせられたのでそれなりに出来ました。『うず潮』 では吉永さんがバイオリンを弾くシーン。僕が教えたもんです。彼女はピアノが素晴らしいんです。お母さんから教わったそうです。」 小学校の時にバイオリンを習った? 「終戦直後にバイオリンですよ。どこのお坊ちゃんだよ、ってなもんです(笑)。」 今井正監督の『ここに泉あり』 でバイオリンを弾く少年が出ますが 「(驚いて) これは誰にも言っていないのに、よくぞ調べられましたね(笑) あれは岡田英次さんから教えられる中の1人。これが最初に出た映画です。子役でも何でもなくて、バイオインが出来るというだけで出た。今井正監督なんて、私はやったんですねぇ。光栄なもんですねぇ。ホントによく調べられました!」 『上を向いて歩こう』 は当時流行った『ウエストサイド物語』 風でした。『ウエストサイド…』 ではクライマックスに若者同士が対立して殺しあいますが、『上を向いて…』 では凶器を手にすることなく終わる。 「そこが良いですよね。エンディングでは出来たばかりの駒沢の国立競技場で肩を組んで「上を向いてあるこう」 を歌います。」 そこで歌う歌詞がレコードのとは違うんです。レコードでは秋までしかないのですが、映画では冬の日が入っているんです。♪上を向いて歩こう 滲んだ星を数えて 思い出す冬の日 ひとりぼっちの夜♪ レコードでは♪悲しみは星のかげに 悲しみは月のかげに♪ これが映画では♪幸せは星の上に 幸せは月の上に♪ 上だから凄いポシティブなんです。最後が♪上を向いて歩こう 涙がこぼれないように 手を繋ぎ歩こう 若い僕らの歌♪ これは日活映画のポシティブな青春ソングなんです。 「それは気が付きませんでした。」 舛田監督にお話を伺ったのですが、あのポシティブさっていうのは永六輔さんと舛田監督で相談をしたもののようです。クライマックスで小百合さんが喧嘩を止めてってスゴク良い台詞を叫びますね。 「どうしてそんなに憎みあって傷つけあうのよ? 一人ぼっちだから手を繋ぐんじゃない。胸を張って歩くんじゃない。寂しかったら笑うのよ。悲しかったら頑張るのよ。弱い人間だから助け合うんじゃない。一人ぼっちだから愛し合うのよ。」 この小百合さんの言葉に高橋英樹さんも平田大三郎さんも坂本九さんも浜田さんも救済されていくんです。 「あれは名台詞でしたね。」 これはタイトルバックに台詞協力として永六輔とありますが、おそらくは山田信夫さんの脚本に舛田さんが相談されて、永さんがインスパイアされて、これがこの映画の感動をより深いものにしているんじゃないかと思うのです。 「そうですね。インパクトありますね。吉永さんが最後にビシっとその言葉を言う。それでみんな目覚めるというか」 そこへ「上を向いて歩こう」 が流れる。映画の中では「上を向いて歩こう」 のメロディは随所に流れるけど歌は出ない。 「映画観にきているのにねぇ。まだ出すものかと(笑) 。まだまだぁってね。それで最後にダーンって流れる。」 それで最後にみんなで歌うあのシーンが出る。それも九ちゃん一人で歌うのではなく、主要キャストでワンフレーズずつ歌うミュージカル調で流れる。浜田さんと九ちゃんはこの年の秋に姉妹編の『ひとりぼっちの二人だが』 を撮ります。 「あーそうだったですね。浅草を舞台にねぇ(笑) 。」 柳橋の芸者で水揚げされる小百合さんを、またチンピラ役の浜田さんと九ちゃんが救おうとする話でしたけど、そこが舛田監督なので浜田さんも小百合さんも追い詰められていきました。 「そうでしたね。またチンピラ役でした(笑) 。でも今は改心してますから(笑) 」 九ちゃんとはそれから5年後に『君は恋人』 で共演します。 「『君は恋人』 、私は昭和四十年に名古屋で目に怪我をして、1年半ブランクがありまして、復帰作でした。いろんな意味でお世話になった水の江たき子さんがプロデューサーで、九ちゃんも出てくれたオールスター映画でした。いろんな人たちにお世話になったありがたい映画でした。映画の最初で日活撮影所に行くと、川地民夫さんや山本陽子さんとかに迎えられて、スタジオに入ると監督が裕次郎さんで、「おー元気だったな!」 なんて言ってもらえて。オールスター映画って東映とかでもありますが、『君は恋人』 は歌謡界からもスパイダースにジャニーズ、舟木一夫さんも出てたし、日活はもう全員出てたし。最後は小林旭さんが東芝のディレクター役でね。」 中村八大さんがピアノを弾いていました。 「そうですね。八大先生にも大変お世話になりました。いろんな人たちに助けられた本当にありがたいと思う作品です。」 あの映画の最後に当時日本テレビの『九ちゃん』 のゲストで浜田さんが出てきて九ちゃんとの会話がありますが、あれは台本にない素の二人の会話で、浜田さんを気遣う九ちゃんの姿に今観ると非常に胸を打たれるものがあります。 「映画の他にもNHKのドラマ『わが歌声の高ければ』 の舞台を九ちゃんとやりました。一ヶ月梅田コマでやりまして、九ちゃんとは映画で始まった友情が舞台でも続いたんです。でも帰らぬ人となってしまって、僕が今67歳。九ちゃんがお元気なら70歳。」 坂本九さんは『上を向いて歩こう』 という歌を歌って、みんなの心に残っています。永さんの歌詞は切なくてネガティブな部分もあるのですが、それを超えようと言っています。そこが良いですよね。僕が日活映画を好きなのは、そういった気持ちをキチッとした台詞で明確に意思表示するところなのです。『泥だらけの純情』 もそうですし、自分の気持ちをキチンと伝える。現実にはなかなかないことなのですが。 「そうですよね。『泥だらけの純情』 。大使の令嬢としがないチンピラの恋。ここでもチンピラ役でした。ホンっトにチンピラ役やらせたら上手かったです(笑) 。二人で逃げてアパートを借ります。野呂圭介さんの新聞屋が購読の勧誘にやってきて、村田英雄ショーのチケット貰うんです。『王将』 を歌うんですが、(監督からは) ワンコーラスって指示だったのですが、なかなか終わらないんです。結局最後まで歌いました。」 新聞を取るのですが、(寒いから) 読まないで(体に) かけるんです。そこに少年と少女の切なさみたいなのがありました。 「よく憶えてますねぇ。そこまで憶えていませんでした(笑) 。」 ここで佐藤さんの呼びかけで白鳥あかねさん、登壇。 「私は1955年に日活に入りまして、斉藤武市監督で渡り鳥シリーズに付いていまして、これが終わった頃に浜田さん、吉永さんの純愛路線に付きました。『愛と死をみつめて』 で電話で浜田さんが『禁じられた遊び』 を小百合ちゃんに聴かせるシーンの撮影ではホントにスタッフが泣きました。私も今思い出すと涙が出ます。小百合ちゃんは顔に包帯を巻いているから見える演技なのですが、浜田さんはひたすら小百合ちゃんを支えていく役だから難しかったと思います。」 「そうですね。彼女をどうにかして救いたいと思う役だったから、印象に残っている最高の作品でした。」 浜田さんはお客さんに白鳥さんのスクリプターという仕事を監督の女房役と説明。 「浜田さんは本当にキチっとされた方で、南田洋子さんの一周忌の時、あの時は一周忌のあとに体を悪くされていた長門裕之さんの快気祝いも一緒にやりました。そのときも浜田さんに来ていただいて、後々まで人と人との関係を大事にしてくださる方です。たぶん九ちゃんも生きていたら同じだと思います。私はこの『上を向いて歩こう』 撮影の時に、舛田監督に信頼されていた中川初子さんに頼んで、スタジオに潜り込んで九ちゃんを紹介してもらいました。その時も九ちゃんはニコニコして、今日は持ってこなかったのですが、3人で一緒に写真を撮りました。今日は浜田さんが見えるという事で、矢も盾もたまらずに一観客として駆けつけました。私はこのアートセンターで上映する作品の選定委員をやらせてもらっているのですが、長門裕之さんや津川雅彦さんなど日活出身の方をお呼びする事が多いのです。だから何となく日活色が濃厚になっています。だから佐藤さんのように私よりも日活に詳しい方がいらしているのがとても嬉しいです。(ここで)日活シリーズやりたいですね。そのときはまた宜しくお願いします。」 と挨拶して舞台を降りていった。 『上を向いて歩こう』 は日活50周年で作られた記念作品です。この時に日活銀座がオープンしました。『銀座の恋の物語』 はここで撮ったのですが、舛田監督はリアリズムの監督だから、「セットは嫌いだ。」 と言って、(日活銀座を) 使ったのは浜田さんが事故るトコだけなんです。 「銀座とか新宿とかは撮影許可がなかなか下りないんです。それでベニア板で銀座を作ったのですが、実際の銀座に比べると、どうしてもダラしがない感じになってしまう。でも裕次郎さんやアキラさんの映画では群集の関係で使わざるをえない。公道で事故のシーンを撮るのは許可を取るのが難しいです。だから舛田監督は事故のシーンで使っただけだったんです。」 その後、お客さんからの質問コーナーに移る。質問者は皆年輩の方ばかり。質問した男性が昭和22年生まれというと、「世代的に一番のお客さんですね(笑)。」 ニコニコしながら丁寧に応対していた姿が印象的だった。 逆に浜田さんから佐藤さんに質問があった。『上を向いて歩こう』 が何故海外ではスキヤキソングと呼ばれているのか? 佐藤さんが理由を説明すると、「この人に聞けば何でも分かる。池上彰さんのような人です(笑) 。」 最後は「見上げてごらん夜の星を」 を浜田さんが熱唱。 「今日は九ちゃんの話が出来て、いろいろな事を思い出しました。映画がこうやって残っているのは財産です。風化させないために、いろいろな形で九ちゃんを盛り立てて欲しいです。私は裕次郎さんには仲人をしていただきました。吉永小百合さんという素晴らしい相手役にも恵まれて、もう素晴らしい方たちに囲まれてきております。私も67歳ですけれど、役者に定年はございません。今後ともよろしくお願いします。」 去り際、年輩女性から「歌が大変お上手なので感動しました。」 と声をかけられると「そうですかぁ、じゃあもう少し歌っちゃおうかな。」 優しい笑顔で応対。佐藤さんが「浜田さんはレコードをたくさん出しておられるのですよ。」 とフォローしていたのには爆笑。 ★ ★ ★ 万雷の拍手の中、ステージを降りる浜田さんの姿には映画スターとしてのオーラが漂っていた。小柄で細身の体ながら、歩く姿は大きく見えた。ああ、これがスターなのだな。 終了したのが13時15分頃。佐藤さんに挨拶だけでもしたかったけど、ノート類を仕舞っていたらタイミングを逸してしまい、またまた声をかけそびれてしまいました。佐藤さん、ゴメンなさい。また機会があった時は、必ずご挨拶だけでもしたいと思います。佐藤さんから見て、最後部の左側の席に赤っぽいセーターを着ていた不気味な中年オタク野郎がオイラです(分かんないよ) 。 終了後はすぐに会場を出た。外は寒かったけど、日活のあの熱かった時代に触れる事が出来て非常に幸せな気持ちになれました。浜田光夫さん、佐藤利明さん、白鳥あかねさん、他関係者の皆さん、楽しいイベントでした。ありがとうございました。 |