第24話 初勝利

 

 

 1989年3月25日土曜日。オイラはJR水道橋駅に降り立った。時刻は16時半、キック連合の興行が後楽園ホールで行われる。大崎ジムからは中屋、木村、そしてジムのエース・三沢が出場する。特に三沢は今日が初の5回戦だ。対戦相手はアメリカの黒人選手。数日前に佐々田に尋ねたら「強い」らしい。しかし宮田は「問題ない」。楽に考えているようだ。どちらが正しいのか知らないが、甘い相手ではないと思う。中屋は2週間前に急に決まった。予定していた選手が怪我をしたためにピンチヒッターだ。普段から練習量は充分、いつでもリングに上がれるコンディションを維持している。しかしモジベーションとしては不安が残るが、どうなのだろう。度胸一番の中屋は不安を感じさせる素振りは一切見せなかった。逆に「今度こそ!」 と闘志を燃やしていた。流石である。木村は今日勝てば5回戦昇格になるらしい。他団体は知らないが、キック連合では昇格する明確な規定はないそうだ。3勝以上すれば上がれる、なんて噂を聞いたが、実際は会長や団体関係者が認めれば良いらしい。

 正月興行で来ているので、表のダフ屋に惑わされる事なくオイラは5Fの入り口に直行。試合開始は17時、入場開始は16時からだ。先日、宮田からチケットを貰っていた。今日のセコンドの手伝いは武藤がやるので、今日のオイラは完璧にお客さんだ。3人の試合を客席からじっくり見せてもらおう。いや、いつも一緒に練習している仲間の試合だ。そんな悠長な気分では見られない。特に中屋の場合はデビュー戦をセコンドと言う角度から観ているだけに落ち着かない。別にオイラが戦うわけではないのだがドキドキした。入り口でパンフレットを貰ってホールの中に入る。控え室に顔を出す。佐々田が木村のバンテージを巻いていた。宮田は役員のところにでも行っているのか姿が見えなかった。三沢はまだ来ていないようだ。中屋は青コーナーに続く階段と階段の間のスペースで軽くシャドーして体を暖めていた。傍らに武藤がいた。何か冗談を言い合っていたようでリラックスしていた。「今日はやりますよ。」  今日の相手は空手の選手らしい。「空手ならパンチはたいした事はないと思う。蹴りあいなら負けません。」 
 オイラが試合をするわけではないが怖くなってきた。その緊張感に耐えかねてオイラは“頑張って!”  声をかけて客席に上がった。中屋はニコニコしながら動いていたが、本当はどうなのだろう。怖くはないのか? 出来る事なら逃げ出したい。そうは思わないのだろうか? 自分に置き換えるともう耐えられなかったのだ。情けない話だがとてもプロのリングはオイラには無理だ。
 中屋は3試合目に登場する。場内はまだ6割くらいしか埋まっていない。宮田から貰ったチケットは南側の後ろのほうの席だった。すり鉢上になっているホールだが、ここではリングがかなり遠い。細かい技の応酬が見えない。オイラは思い切って東側の踊り場に上がった。
 ホールの東側と西側上には踊り場がある。TV中継の際は、南側の他にこの東側と西側にもカメラが設置される。ここからだとリングが俯瞰で観られるので細かい攻防やセコンドのやり取りまでが観えるのだ。常連客はここからの観戦を好む者が多い。中屋と木村は青コーナーだ。東側の踊り場からなら青コーナーが良く観える。既に数人の常連が陣取っているが、何とか開いているスペースに体を滑り込ませる事が出来た。立ち見になるが仕方がない。用意の良い奴は折りたたみ式の椅子を持参して座っている。
 貰ったパンフレットを広げる。今日の試合は全部で14試合。3回戦が8試合。5回戦が6試合だ。メインはダブルメインイベントと謳われて日本フェザー級王者・松木聖とライト級王者・タイガー秋山がタイ人選手を迎え撃つ。タイ人は二人ともノーランカーだが、秋山の相手は元ラジャダムナンのフェザー級3位と書かれていた。周知のようにムエタイにはラジャダムナンスタジアムとルンピニースタジアムがあって、それぞれが独立してランキングを整備、王者を認定している。他にもローカルな試合場が幾つかあるが、権威のあるのはこの二つである。
 中屋の相手は杉山俊夫と書かれていた。19歳、戦績は3戦2勝1敗、2勝のうち1つはKO勝ちと書いてある。所属は葛飾区内にある空信館という空手の道場。グローブ空手の道場でキックのクラスも併設している。木村は8試合目。3回戦の最後だ。対戦相手は山梨県甲府市内にあるサンライズジム所属の河村勝利。5戦4勝1敗、4勝のうち3KO。強敵だ。
 雑誌で読んだのだが、サンライズジムの会長は高野という70年代に活躍した選手。昔のキック黄金時代を知っている世代なのであの頃の夢が忘れられないらしい。そのせいか指導も経営も熱心。地方ジムのハンデを物ともせず、バンタム級王者・平賀賢治を筆頭に日本ランカーを数人抱えている。年に一回ペースだが甲府で自主興行まで開いている。会長が熱心だと選手も引きずられるのだろう。ここの選手は強い。練習がかなりハードらしく、スタミナ自慢の選手が多いのだ。

 そして三沢である。11試合目。相手はマーキス・ジョンソン。USライト級1位の肩書き。戦績は13戦12勝1敗。これだけでもスゴイのに12勝全てがKO勝ちと書いてある。1敗というのはタイ人に付けられたものらしい。5回戦は選手の写真が小さく載っているのだが、本当に黒人だ。チリチリパーマで強そう、というよりも凶暴な感じ。上半身が写っているが大胸筋や腕が太くてパンチがありそうだ。初めての5回戦がこんな恐ろしい奴とは・・・大丈夫なのか。
 17時ピッタリに第一試合が始まった。ダラダラと判定まで行った。第二試合も同様だ。西側のベンチ席の後ろで出番を待っている中屋がチラッと見えた。二試合目も判定まで行った。いよいよ中屋の試合である。
 中屋はデビュー戦のときと同様に大き目のタオルを肩に巻いてリングイン。杉山は空手衣で入場。空手道場の選手らしく髪は短く体育会風の風貌の男だった。リングアナの衣笠さんが杉山を紹介すると東側の席付近から歓声が上がる。応援団は10人くらいか。南側の席からもパラパラと拍手。野太い声で「杉山!」 道場の仲間だろうか。中屋の方は西側から拍手。定時制の仲間だろうか。どういう関係なのかは知らないがやはり10人くらいの一団がいた。デビューの時は応援に来ていたのはおそらく数人だったろう。今回は少し増えている。応援してくれる人がいる中屋が羨ましくなった。
 試合が始まった。お互いにジャブとローキックの探りあいで静かなスタート。これも判定まで行きそうな展開だ。しかしこの静寂はいきなり破られた。杉山がフルコン空手式のワンツー、右ローキックで前に出始めたのだ。ローキックはたいした事はないが、ワンツーはフック気味に振ってくるのでまともに喰らうとダウンしかねない迫力だ。しかし中屋は冷静だった。杉山の左に合わせて左ジャブを付いて出鼻をくじき右のローキックに繋げる。このロー一発で杉山の勢いが止まった。中屋はタイ人ばりの左ミドルキック。右ヒジでブロックされたがバチン! とスゴイ音がした。蹴りが走っている。中屋の調子が良いのが分かる。負けずに杉山も右のミドルを蹴り返す。中屋は左ひざを上げてブロック。更に左足を地面に付けた反動で左ミドルを蹴り返す。杉山は右のローを返す。中屋は軽くバックステップして微妙に杉山の間合いを外す。このパターンの繰り返しが2~3度続いた。杉山の蹴りは右ばかりで左が出ない。右が得意なのか、いやおそらく左は蹴りなれていないのだろう。あまり得意でないから怖くて試合で出す事が出来ないのだ。中屋は杉山のパターンを読みきったのだろう。杉山の右ローに合わせてワンツーを叩き込む。更に右のローを連打。杉山は中屋のローに反応できず体が傾いてしまっている。ガードが下がったところに中屋のワンツーがクリーンヒット。ぐらついた所にまた右のロー。たまらず杉山は尻餅を付く。すぐに立ち上がったのでレフェリーはダウンを取らない。立ち上がって再開したところに中屋のワンツーから左フック、さらにまた右のロー。また杉山が尻餅を付く。今度はダメージを食らって倒れた、と判断したのだろう。レフェリーはダウンを宣告。カウント6で立ち上がった杉山だが、左足が利いている。再開後も中屋の執拗なローキックでまたダウン。杉山は根性で立ち上がるが、これ以上は無理だろう。しかしセコンドはタオルを投げない。佐々田は「行け!行け!」 と叫んでいる。あと一度ダウンを取れば勝ちだ。軽く頷いた中屋はワンツーから右のローキック。立っているのもやっとの状態だったのだろう。ローをブロックすることも出来ずにダウン。レフェリーが試合を止める。中屋のKO勝ちだ。タイムは1ラウンド2分48秒。圧勝である。
 中屋の良いところばかりが出た試合だった。左ミドルも右のローキックも切れ味抜群だった。杉山も2勝している選手だ。それが中屋の蹴りに反応出来なかった。これはパンチに繋げて蹴っていたからだろう。以前はパンチが苦手なため蹴りから攻撃に入る事が多かった。しかし今日の中屋は必ずパンチから入っていた。相手のパンチにも反応していた。1週間とはいえボクシングジムへの出稽古の成果が出ているのだろう。
 1ラウンドKO勝ちをしても中屋は冷静だった。3回戦でもプロなのだからもう少し客にアピールしても良いと思うが、乱れないところは中屋らしい。そんな姿にお客さんの拍手もパラパラだった。応援団の連中が「やったぁ!」 「強えぇ!」 と叫んでいたのが印象的だった。