第６話　練習済んで、日が暮れて

スパーリングが終わり、オイラはリングを降りた。宮田がグローブを外してくれた。ヘッドギアは自分で外す。ジムの物なので、次に使う人のために自分のタオルでヘッドギアに付いた汗を拭いた。ギアとグローブをジムの片隅にある用具置き場の壁に吊るしていると、「ナイススパー！」声をかけられた。振り返るとジムの先輩の三沢がいた。インターバルの時にオイラのマウスピースを洗ってくれたのが三沢だった。三沢はライト級のプロ選手だ。たしか４戦４勝（４ＫＯ）。ジムにはまだ５回戦の選手がいないので、三沢はジムのエース格だ。戦績も良いので、宮田も佐々田も期待をかけている。２１歳、昼間は大学に通っているそうだ。それまで三沢とは口を利いたことがなかった。先輩なので、ジムで顔を合わせれば挨拶をする程度だった。３回戦とはいえ、体力作り会員のオイラからすればプロ選手は雲の上の人だ。それに人と会話をすることに慣れていないので、下手な事を言って怒らせたりしたら大変だ。気安く会話など出来ない。しかし三沢は柔和な感じで気さくに声をかけてくれた。「スパー、今日初めてだったの？上手いね・・・良かったよ。」宮田や佐々田以外から声をかけられたり、誉められたりしたのは初めての事だった。それまで根性負けして意気消沈していたのだが、少し元気になった。そこへ中屋がやってきた。中屋も自分の使った道具を返しに来たのだ。三沢は中屋の肩を叩き、「お疲れ！」明るく声をかけて、練習に戻っていった。オイラは中屋に挨拶した。中屋は少しドモりながら「最後の方に貰った右、効きました。試合なら倒されてた。」中屋もあまり喋る事に慣れていないようだった。坊主頭で目が細く、眠そうな顔をしている。お世辞にも垢抜けているとは言えない。オタクのオイラから見てもイカさない感じだった。もしかして、こいつはオイラと同じ人種なのでは？と思った。オイラと同じようなタイプの人間がいる。驚いた、と同時に少し嬉しくなった。その日はスパーをしたという事もあり、軽くサンドバッグをやって練習を上がった。シャワーを浴びて更衣室で着替えていると中屋が入ってきた。何か急いでいるようで、手早く着替えてジムを出て行った。後で佐々田に聞いたのだが、中屋は近所の定時制の高校に通っているらしい。昼は親戚の経営する町工場で住み込みで働き、夕方にジムで練習。夜は定時制で勉強というハードな毎日を過ごしている。キックも完全プロ志望らしい。元々は郷里の青森の高校の空手部だったそうだ。キックのチャンピオンになりたくて、高校を中退して上京したらしい。さっきはボソボソとドモりながら喋る中屋を見て「自分と同じ」と思ったのだが、どうやら違うようだ。中屋はオイラなどと違って本気で生きているのだ。
　夕方５時過ぎにジムを出た。ＪＲ大崎駅まで歩く。途中、自販機が並んでいる酒屋の前を通る。いつもは金が無いので公園で水を飲んでガマンするのだが、今日は初めてスパーリングをしたから自分で自分にご褒美だ。スポーツドリンクを買って飲んだ。ホッとしていると、つい１時間前にやったスパーリングの事を思い出した。中屋のパンチも貰ったが、こっちのも当たった。２ラウンドに当てた右ストレートの感触は今でも憶えている。リング上でのオイラはもしかしてカッコ良かったのかも・・・才能あったりして。柄にも無く自惚れてしまう。しかし最後は根性負けしてしまった。闘志がないのは仕方がないとしても、１ラウンドでバテてしまった。まるでスタミナがなかった。もう少し体力があれば、根性の無さがカバー出来るかもしれない。スタミナかぁ・・・やはり朝、走らなければダメだ。別にプロになろうというワケではない。プロ希望で空手経験者の中屋に比べて劣っているのは仕方がないにしても、もう少し何とかしたい。よし、明日から走ろう。オイラは自販機の前で決心した。