第2話 生きていた負け犬

 

 88年の夏に入門したものの、モヤシのオイラはジムの片隅でおよそキックボクシングとは言えない動きを繰り返していた。身長175センチなのだが、体重は練習前でも55〜56キロくらいしか無かった。約2時間の練習で1.5〜2キロ落ちるから。練習後は53〜54キロになる。細い手足、薄い胸板。ジムの鏡の前でカッコ悪いフォームでキックやパンチを繰り出していた。空いているとサンドバッグを叩くのだがパワーのかけらもない。同じ頃に入った奴でもセンスの良い奴は教わった事をすぐに吸収、自分の動きに取り入れて頭角を現していた。スパーリングやミット打ちをして実力をつけてデビューしていく。オイラは体力作りだし、とても試合に出る度胸も実力もないので傍観するだけ。そんなオイラがどうして試合をする気になったのだろう。
 対人恐怖症の気のあるオイラは人と競争する事が苦手だった。自分で好き勝手にやるのなら良いのだが、他人と何かを争うのが、とにかくダメ。試合やスパーリングで相手と向き合った時、何考えているのかが何となく分かる。「倒してやろう。」「出し抜いてやろう。」。そんな目標に向って攻撃してくるのを目の当たりにすると、「イヤだな。」と思う。そして怖いのである。普通、男にはそれなりに闘争心というものがあるが、オイラにはこれが無かった。無い、というのは言い過ぎだが、「あまり」無かったのだ。格闘技に限らず、男なら誰でもそれなりに闘争心というものがある。体格の良い奴を見て「こいつとケンカして勝てるかな。」とか、「何かあったらやってやろう。」とか勇ましい事を考えているものだ。そこまで行かなくても「良い会社に入ろう。」、「出世して良い生活しよう。」、そして「キレイな女をモノにしてやろう。」。皆、そのために努力する。オイラはどうもこの辺の努力をするのが苦手だった。生来の怠け者なのか?いや勉強に関しては頭が悪い、というだけの話。女に関しては、他人とのコミュニケーション能力が低いからだろう。おまけに自分の容姿にも自信がなかった。容姿だけではなく、自分の存在そのものに自信がない、劣等感の塊のような男だった。「何が楽しくて生きてるの?」「死ねないからでしょ。」そんな陰口を叩かれた事もある。学校も男子校だったので中学卒業以来、女と会話をした事もなかった。いや、まともに女と会話など出来なかったから、中学の時も喋ったのは数えるほど。こんなネガティブな性格では友も彼女も出来るわけが無い、仕方ないネ。それでも妄想だけは膨らむ。思春期だからネ。毎夜、オ○ニーばかりしていた。誰にも相手にされないオイラだが、キックボクシングだけは違った。練習して汗をかくと気持ち良かった。毎日、サンドバッグを蹴っていると日に日に動きがサマになっていくのが分かった。何より体格に変化が現われて来たのだ。モヤシのような体がすこしずつゴツクなって来た。入門時から体重が徐々に増えて行き、3ヶ月で60キロ(練習前)になった。ボクシングの動きは有酸素運動だから、普通は痩せるものだが、元々筋肉や脂肪が少ない虚弱なオイラは逆に運動する事によって体格が良くなったのだ。おまけに17歳。成長期だったし、運動して腹が減る。食事量も増えた。デカクなるのは当然だ。自分の体が変わる・・・充実感があった・・・生まれて初めて味わった感覚だった。