第3話 おたくバカ一代

入門から数ヶ月経ち、ジムの雰囲気や練習にも慣れてきた。毎日、学校帰りにジムに通った。夕方、4時頃。10人くらいのジム生が練習していた。この時間では殆んどが学生だ。6時近くになると5時で仕事を終わった社会人が集まってくる。混んでいると選手優先になってしまうが、空いている時間ならオイラのような体力作り会員でもサンドバッグを叩ける。サンドバッグを叩く、といえば聞こえは良いが、オイラの実力ではジャレ付いているとしか見えない。見かねたのか?佐々田に声をかけられた。「左ジャブから右ローキックやってみろ。」やってみたのだが、センスの無いオイラでは中々上手くいかない。佐々田に言わせると、昔はこれしか出来ない選手でも平気で試合に出ていたそうだ。「気持ちだよ、気持ち。気持ち一つでリングに上がっていたんだ。」今の選手はキックもパンチもオールラウンドに使う選手が多い。その代わりハートのこもった一発を打つ選手が少なくなった。佐々田は遠い目をして語っていた。佐々田に技術的なアドバイスを受けたのはこれが初めてだった。今までプロ選手たちの動きを横目で見ながら彼らの動きを盗んでいた。いやそんなカッコ良いものではない。猿真似していただけだった。真似といってもオイラのする事だから大した動きではないのだが、いつもは挨拶程度の会話しかしない佐々田から直々に指導を受けた。嬉しかった。「左ジャブから右ローキック」。以来、これがオイラの基本コンビネーションになった。珍しくも無い当たり前のコンビネーションだが、現在では「対角線の攻撃」なんて言われてる。技術本にも載っているが、理屈はどうでも良い。オイラは毎日、サンドバッグに左ジャブから右ローキックを叩き続けた。修練とは恐ろしいもので、毎日続けていたら段々と動きがサマになってきた。右ローキックを蹴るとサンドバッグが良い音を上げだしたのだ。右足に体重が乗っているのが分かった。“バシッ”という鈍い音がしてサンドバッグを吊るしている鎖が軋む。背中にゾクッという快感が走った。「これか!こうやるのか。」感動した。不器用な奴には感動がある、と言われる。出来ない事が出来た時の感動を一生忘れないからだ。しかしこの感動という奴が実は曲者なのである。感動って麻薬と同じで気持ち良いのだ。一度この快感を知ってしまうともう中毒。なかなか抜けられなくなるのだ。

 毎日、ジムに通っては蹴りまくっていた。ある日、佐々田に声をかけられた。「中屋とスパーリングしてくれ。」中屋というのは最近入門してきた男だった。年齢はオイラと同じ17才らしい。「らしい」、というのは、オイラはこの中屋とは会話をした事がなかった。元々、人と会話する事に慣れていないため、ジム内でも宮田や佐々田に声をかけられれば喋るが、他のジム生とは会話をした事がなかった。だからどんな男なのか知らなかった。分かっているのはどこかで空手をやっていたらしい、という事だけ。空手といっても突きや蹴りを直接相手に当てるフルコンタクトルールではない。伝統空手、いわゆる「寸止め」と呼ばれるものをやっていたようだ。周知のように空手には様々なルールがある。大きく分けると「当てる空手」と「当てない空手」とに分かれる。当てるルールもフルコンタクト(直接打撃制)と呼ばれる素手による顔面パンチを禁止したものや、新空手やグローブ空手と呼ばれるキックボクシングスタイルのもの、顔面に防具を付けて素手で殴りあうものとに分かれる。更に細かく分けると、投げや寝技まで認めたものまで存在する。中には顔面を拳で殴るのは禁止だが、掌底(手の平)で殴るのはOKというものもある。中屋は高校の空手部にいたらしい。伝統空手は体育協会に加盟しているので国体種目にもなっている。だから高校の部活といえば伝統空手である。オイラと同じ歳という事は学生なのか?しかし、かもし出す雰囲気は社会人のものだった。
 それまでオイラはスパーリングをした事がなかった。対人練習は空手でいう約束組み手のようなものを何度かやったことがあるだけだった。その時に教わったのは、「パーリング」と呼ばれる相手の左ジャブを自分の右の掌で受け流す防御方法。これは略して「パリー」と呼ばれる。更にパリーの後に左ジャブを返す「リターンジャブ」。他には相手の回し蹴りをスネで受けたり、相手の左の前蹴りを左手でサバいて、相手の体が流れたところに右のローキックを返す、という事だけだった。スパーリングはこういう約束事の動きではない。ヘッドギアをして14オンスのデカイグローブを付けて、試合さながらに殴りあう。もちろん宮田や佐々田が事故の無いように気をつけて見ているので、ヤバイ時はすぐに止めてしまう。試合ではミニマム級(47.61kg以下)〜ライト級(58.97〜61.23kg)までは8オンス。それ以上の階級は10オンスグローブを付ける。もっともキックにはミニマム級はないからフライ級(48.97〜50.8kg)からという事になる。
 スパーリングとはいえ、誰かと本気で殴りあうというのは初めての体験だった。イジメられっ子だったから今までケンカ一つした事がない。格闘技である以上、人と殴りあうのは避けられない事なのだが、緊張した。正直、怖いと思った。今まで気にも留めなかった中屋が急に強そうな奴に思えてきた。オイラよりも身長が数センチ小さい中屋が急に大きく見えてきたのだ。血の気が引いていくのが自覚できた。ビビっている自分を冷静に見ている、もう一人の自分がいた。