第22話 決戦直前

 

 

 決勝戦での敗北が火をつけてしまったのか、以前にも増してキックに取り組むようになった。毎朝のロードワークもダッシュを織り交ぜて変化を付けるようになった。ジムワークも休まない。いつもは学校帰りの早い時間に行っていたのだが、夜6時以降に行くようになった。ジム生の多くは昼間仕事やバイトをしているため、プロ選手やプロ希望の猛者たちが集まってくるのは夜になる。ジムの中は大混雑。夕方と違い、リングの中はシャドーボクシングやミット練習をする連中で一杯だ。誰かがスパーリングを始めれば動く場所がなくなるので、外の駐車スペースで練習することも珍しくなかった。サンドバッグもなかなか空かないのでオイラのような体力作り会員は触ることも出来ない。しかし人が多い分、活気があった。上を目指すプロ選手たちと動くだけでも刺激になった。動きの一つ一つを盗み見て自分に取り入れた。何より良かったのはスパーリングやマスボクシングの声がかかるようになった事だ。夕方の練習でも対人練習はするが、人も少ないし体力作りの会員ばかり。たまに時間が合えば中屋とやったりするが、そうでないとオイラが一番強かったりするレベル。スパーリングを優位に進められた日は気分良く練習を終わらせる事が出来る。安らかな気持ちでオナニーして寝る事も出来た(笑)。しかしそれでは強くなれない。自分よりも格上の者とやらなければ力は付かないのだ。はっきり言って対人練習は嫌いである。一人で動いてサンドバッグを叩いて、自己満足して終わりたい。最初はそれで良かった。勝負事は自分には向かない。その事は先日の試合で強く自覚するようになった。宮田や佐々田から「スパーやるぞ。」 そう言われるとドキドキした。体は温まっているのだが寒気がした。血の気が引いていくのが分かる。
 オタク気質のオイラは他人と関わる事に嫌悪感があった。この気持ちはいまだに変わらない。人と殴りあうというのは究極のコミュニケーションだ。飛んでくるパンチに「倒してやる!」という強い思いが乗っているのを感じる。その思いが怖かった。それを上回る気持ちを乗せて攻撃をしなければならない。考えただけで苦しくなる。そんな時は決勝戦でビビって何も出来なかった自分を思い出すようにした。キックをやるのは情けない自分に喝を入れるため。カッコ悪い自分に罰を与えるのだ。とにかくやるしかない。あの時の弱い自分を乗り越えたい。それには強くならなければいけない。そのための対人練習だ。強い奴とスパーする・・・やられる。どうすれば良いのか・・・考える。毎回その繰り返しだった。それでもセンスもない。頭も悪いオイラでは相手の攻撃にどう対応して良いのか思いつかない事が多かった。結局頭であれこれ考えても仕方がない。場数を踏んで免疫をつけるという結論になった。そのために夜行くのだ。本当は怖くて仕方ない。一文にもならないのにこんな事をするなんて無駄なことだ。適当なところで辞めておいた方が利口である。しかし自分の弱い部分を直視してしまった以上、やらない訳にはいかない。強い奴とのスパーを求めて毎日通った。宮田も佐々田も体力作り会員のオイラに声をかけてくれるのだから、少しはオイラの事を評価してくれているのだろう。勉強も運動も出来なかったオイラに声をかけてくれる。その期待にも応えたかった。

 3月11日土曜日。学校が早く終わるので夕方にジムへ。着替えて準備体操。16時だが、土曜日は休みの人間もいるらしく早い時間から来ている者も多い。リングで動くスペースがあったので、中に入ってシャドーを始める。徐々にジムも混雑してくる。この日はスパーリングの声はかからなかったので、使えなくなる前にサンドバッグを蹴ろう。3月25日の興行に出る三沢と木村の姿はなかった。最近この二人と佐々田を見かけない事が多い。
 中屋の話では25日の試合に備えて出稽古に出ているらしい。佐々田に引率されボクシングジムに通っているそうだ。品川駅近くにある渡部ジム。駅前に看板が出ていた。日本王者や日本ランカーを抱える大手のジムで、会長の渡部と宮田は知り合いらしい。今度の三沢の試合は初めての5回戦。相手はアメリカの黒人選手で蹴りよりもパンチが上手いらしい。そのためのボクシング特訓か。三沢は普段から出稽古をする事が多かった。考えてみれば三沢の相手が務まる選手は大崎ジムにはいないのだから、試合前の練習は出稽古が中心となる。それくらい実力は群を抜いていた。渡部ジムの他、1部リーグの大学ボクシング部。チャンピオンやタイ人のいるキックのジム。顔面パンチを認めたルールの有名空手道場等。対戦相手のタイプに合わせてあちこちでスパーしているらしい。興行は別としても格闘技の世界はボーダーレスだ。しかしここまで多くの場所で練習する選手も珍しいだろう。実力もあり、明るい性格の三沢はどこでも快く受け入れてもらえるらしい。初めての5回戦が国際戦とは、三沢に対する団体の期待も大きい。木村は三沢の出稽古に便乗。渡部ジムのウェルターやミドル級のボクサーとスパーリングをしているらしい。今度の試合に勝てば木村も5回戦昇格となる。強い相手とスパーして腕を磨きたい。オイラと同じだ。木村の気持ちが理解できた。

 宮田は長電話をしていた。ジムの中はうるさいので、電話機を外に出して喋っている。ジムの電話のコードは長い。混んでいると、宮田や佐々田はいつも外に出して電話をしている。15分ほど喋っていただろうか。電話を切った宮田はサンドバッグを蹴っていた中屋を呼んだ。中屋は外に出て行った。5分ほどで帰って来た中屋は無表情でサンドバッグを蹴り始めた。宮田はまたどこかに電話をしていた。電話を終えた宮田はキックミットを用意してリングに上がる。中屋を呼んで3R、キックミットをやっていた。いつも中屋のミットは佐々田が持っている。宮田が持つのは滅多にない事だ。何があったのだろう?
 18時過ぎに練習を終えて更衣室で着替えていると、中屋も終わったらしく着替えにやって来た。駅まで一緒に帰ることにした。オイラが尋ねると中屋はニッコリ笑って「25日の試合に出る事になりました。」 予定していた選手が怪我をして出られなくなったのでピンチヒッターで中屋が出る事になったらしい。前回と同じフェザー級なので減量の必要はないが、試合までもう2週間しかない。デビュー戦は負けてしまったが、中屋は3回戦では高いレベルにある。普段から練習量も充分。いつでもリングに上がれるコンディションを作っている。大丈夫だとは思うが、あまり日数がない。不安にならないのだろうか? ならないわけがない。今度こそ勝ちたい。そう思っているはずだ。中屋が笑顔を見せたのは、萎縮しがちな気持ちを鼓舞するためのものなのだろう。
 月曜日から中屋も三沢や木村の出稽古に参加するようになった。スパーリングは試合の1週間前で終了なので、中屋の練習は今週が山となる。出稽古のないある日、中屋と一緒になった。尋ねると渡部ジムのC級ボクサー(4回戦)とスパーしているそうだ。三沢も木村もA級ボクサー(8回戦、10回戦以上)と打ち合っているらしい。ここでも三沢は非凡なセンスを見せた。一度だけジムの看板選手・日本ライト級王者の高野旭と手合わせしたらしい。その時三沢のパンチが数発、高野を捉えたというのだ。クリーンヒットこそしなかったが、三沢は良い所を見せた。高野は自身の防衛戦直前だったので調整を兼ねて相手をしたらしい。本気を出していたわけではないだろうが、つい数ヶ月前まで前座だったキックボクサーが、現役の日本王者相手にスパーリングとは普通では考えられない事だ。渡部会長も高野も三沢のボクシングセンスに驚いていたらしい。木村は最初の頃は4回戦相手に打たれることが多かったらしい。しかし最近は慣れてきたのだろう。A級の相手も務まる様になったそうだ。木村も良い調子で仕上がっている。