第17話 殴りこみ大崎ジム
1989年2月12日日曜日、午前8時30分。オイラは重い足取りで大久保の自宅を出た。背中に背負ったディバッグにはジムで借りた空手衣とヘッドギアが入っている。今日はキック連合が主催するアマチュアのグローブ空手の大会がある。フレッシュマンクラスと呼ばれる、初心者クラスの軽量級に出場するオイラは緊張していた。初めての試合。人と殴り合って勝敗が付くのだ。自分が強いのか弱いのか、判定されるのだ。自己満足で終わるスパーリングとは訳が違う。生来の気の弱さから、試合をしている自分を思い浮かべても勝つ姿がイメージ出来なかった。先日の中屋の試合で、勝負の厳しさを目の当たりにして萎縮してしまう自分がいた。これではいけない、と勝利している自分を無理にでもイメージしてみる。勝たなければ、そのために努力してきたのだ。試合時間は2分だし、毎朝走っていたからスタミナは持つはずだ。ジムワークも一日もサボらずにこなして来た。スパーリングでも最近は、プロの3回戦を相手にしても分の良い内容でこなせるようになった。自信を持つんだ。最近のオイラは強気な自分と弱い自分とが交互に現れる。感情が揺れ動いていた。試合の他に心配な事があった。ジムでスパーリングをしていて分かったのだが、どうもオイラは鼻血の出やすい体質らしい。相手のパンチが鼻先に当たると出血する事が多いのだ。20歳を過ぎた頃に耳鼻科で診て貰って分かったのだが、オイラの鼻の中は血管が骨の上を走っていて、叩かれると骨で血管が切れて出血するらしい。血管を焼いて治すという方法があるそうだが、オイラの場合は血管が複雑に走っているらしく、チョッと焼いただけでは効果が期待出来なかった。殴りあうのだから多少の出血は覚悟している。しかしあまり見栄えの良いものではないし、下手をすればレフェリーに止められてしまうかもしれない。この頃は自分がそんな爆弾を抱えているとは知る由もなかった。
試合場は新宿スポーツセンター。JR高田馬場駅から徒歩7〜8分の戸山公園大久保地区の中にある5階建ての公共施設だ。地下は駐車場。1階はプールと幼児体育室。2階にはウェイトトレーニング室と会議室。3階が柔道場と体育館。4階が剣道場。5階にはランニングトラックや洋弓場がある。大久保のオイラの家からは歩いて15分くらいだ。歩いて行ける距離だし、この辺は毎朝ロードワークしているので勝手は知っている。スポーツセンターのある戸山公園は70年代前半頃までは交通公園と呼ばれる大きな遊技場だったそうだ。公園内は教習所のコースのように信号や踏み切りがあって、ゴーカートに乗って交通ルールを学べるようになっていたらしい。管理事務所のあったビルの屋上にはローラースケート場があって、交通公園は当時近所に住む子供たちの社交場になっていたそうだ。しかし施設を利用するのは全て有料。ゴーカートもスケート場も100円〜150円かかる。遊園地に比べて安いとはいえ、小遣いに余裕のある子供しか利用出来なかった。交通公園が戸山公園に変わったのはいつ頃の事なのか知らないが、オイラが物心付いた頃には今の形に変わっていた。現在、ゴーカートコースのあった場所にはホームレスのテント村が出来ている。
戸山公園に入る。周囲を歩いている若い男は試合に出る連中なのだろうか?手ぶらは違うだろうが、バッグを抱えている奴は選手かもしれない。もしかしたらオイラと当たる奴かもしれない.。そう思うと、皆強そうに見えた。少し心臓の鼓動が早くなった。落ち着け、対戦相手と決まった訳ではない。
大崎ジムから今日の試合に出場するのはオイラの他に2人。どちらもヘッドギア着用の初心者クラスでなく、防具を付けないエキスパートクラスと呼ばれる通常の試合に出場する。一人は中量級(70キロ以下)に出場する垣原という20歳の大学生だった。普段は夜、練習に来ているので会うことはないのだが、数日前にジムで顔合わせした。身長は177〜178センチくらいか。がっしりした体格でTシャツごしでも背中が厚いのが分かる。パンチがありそうだ。色黒で目つきが鋭く気の荒そうな男だった。前回の大会で3位入賞。元々プロ志望なのだが、優勝出来なかったのが口惜しいらしく、今回雪辱してデビューしたいらしい。プロ向きの野心家である。
もう1人は重量級(85キロ以下)に出場する武藤。武藤は28歳。昼間は近所の町工場で働いているらしい。重量級ということで武藤はデカかった。身長は187〜188センチくらいだろうか。武藤は体が大きい割りに気の優しい男だった。以前、オイラはスパーリングで鼻血を出した。インターバルの時、ティッシュで鼻を拭いてくれたのが武藤だった。「鼻血、良く出るね。相当(欲求不満が)溜まっているのかな。」笑顔で励ましてくれた。武藤は特にプロ希望と言うわけではないらしい。青春の記念としてデビュー戦だけやってみたいそうだ。グローブ空手の大会は今日が2度目。前回は準優勝したらしい。とはいえ重量級は層が薄いので、参加人数は3人だったそうだ。この時の武藤はシードだったために、初戦がいきなりの決勝戦。判定で負けたらしい。
9時に1階入り口集合という事になっていた。今日はアマチュア大会という事で、宮田も佐々田も来ない。代わりにいつもセコンドの手伝いをしている木村が来るそうだ。木村は33歳、大崎ジム最古参の選手である。8戦して3勝4敗1引き分け。KO勝ちは一つもない。戦績だけを見ると、強いのか弱いのかハッキリしない中途半端な成績だが、もう一つ勝てば5回戦昇格になるらしい。更に木村の手伝いとして、中屋も来るそうだ。先日の試合に負けてから1週間休養して、先週末からジムワークを再開していた。デビュー戦は負けてしまったが、また頑張ると言っていた。セコンドの手伝いをしたオイラが試合という事で応援に来てくれるらしい。5分ほど待っていると、中屋が現れた。中屋はオイラの顔を見ると「頑張ってください。」声をかけてくれた。その後にやって来たのが木村と武藤。垣原が現れたのが9時丁度であった。垣原は木村に「押忍。」と一言、無愛想な挨拶をしただけだった。遅刻したわけではないが、先輩でもある木村や武藤を待たせたのだから、もう少し何か挨拶の仕方があるだろうと思ったが、怖いのでオイラも中屋も黙っていた。
2階の会議室が選手や関係者の更衣室になっていた。オイラ、垣原、武藤の3人は隅に陣取り、空手衣に着替えた。先日、ジムで借りた空手衣だ。少し薄汚れた感じの空手衣だった。洗濯機にかけたのだが落ちなかったのだ。袖が肘くらいまでしかないフルコン空手用のものだ。垣原と武藤のも同様だった。垣原のは胸に布切れが当てられている。垣原は高校時代に某有名フルコン空手の道場に通っていた。布キレの下にはその時の道場の名前が刺繍されているらしい。武藤の空手衣は真新しいものだった。前回出場した時に武道具屋で買ったものらしい。着るのは今日が2回目。新品同様だ。恥ずかしいのは帯の色だった。垣原は茶帯。これは通っていた道場のものだ。武藤は空手衣に付属していた白帯だ。それに対してオイラのは黒帯だったのだ。空手なんてやった事も無いし、初心者クラスに出場するオイラが黒帯とは困った。木村は笑って「黒帯を見て、相手がビビってくれるかもしれないぞ。」。武藤の白帯と交換して欲しかったが、長過ぎてサイズが合わない。仕方が無い、これでやるしかないだろう。黒帯を締めたオイラを見て中屋は「強そうに見えますよ。」。笑顔で励ましてくれた。
計量は9時半から、試合場の第1武道場で行われた。参加人数は全部で120〜130名くらいいるだろうか。壁にクラス別にトーナメント表が貼り出されているらしく人垣が出来ていた。皆、自分の試合を確認していた。オイラも人垣に混じってトーナメント表を見た。フレッシュマンクラス軽量級(60キロ以下)の参加人数は16名だった。優勝するには4回勝たなくてはならない。しかもオイラの名前は一番左側に書かれてあった。つまり第1試合ということだ。対戦相手は川田という選手らしい。所属を見ると、フリーとなっていた。所属している道場の名前は出したくないのか、それとも無断で出場しているのか。でなければ特定の道場には所属しないで、公共の体育館を利用して仲間うちで練習しているのだろうか。中には本当にフリーとして、一人でやっている奴もいる。キックや空手の世界はまだまだ梶原一騎の劇画のような如何わしさが残っているのだ。キックジムの所属なら隠す必要はない。ということは空手系の選手の可能性が高い。あれこれ考えても仕方が無い。試合になれば分かる事だ。クラス別に点呼が行われ試合の順番に整列、軽い階級から計量が行われた。第1試合のオイラが一番最初だった。次に川田の名前が呼ばれる。体重計の前に順番に並ぶので、川田はオイラの後ろに立っている。どんな奴なのか?振り返って確認したい気になるが、面と向って顔を合わせるのはイヤだ。まずは計量だ。木村に上だけでも空手衣を脱いだ方が良いと言われたので、上半身裸で体重計に乗った。59.5キロ。500グラムアンダーでパス。空手衣を着ていたらオーバーしていただろう。オイラの次が川田だった。横目で川田を観察した。身長は175センチのオイラよりもかなり低い。165センチくらいか。60キロ丁度でパスしていた。ずんぐりした体型だが、手足が短く太い。ローキックが重そうだ。パンチもありそう。振り回して来られると厄介かもしれない。パワー負けしないように気をつけなければ。
選手の中には体重がオーバーした選手が数人いた。1時間以内に再計量、それでパスすれば試合に出られるらしい。オーバーした選手は会場の隅でシャドウやミット蹴りをして汗を出している。垣原も武藤も一発でパスしたようだった。時刻は10時を少し回る頃、開会式が11時半からなので、まだ少し時間がある。計量があるので、朝から何も食べていない。腹が減った。武道場の中は飲食禁止なので、オイラたちは会議室に戻った。来る時にコンビニで買った菓子パンとスポーツドリンクで腹を満たした。試合まで1時間チョット。オイラは第1試合だから、開会式が終わるとすぐに出番だ。食べ過ぎると動けなくなるので、菓子パンを一つ食べた。木村がバナナを1房差し入れてくれたので、1本貰った。試合場は二面使って行われる。フレッシュマンクラスは入り口を入って奥の第1試合場で行われる。垣原と武藤の出場するエキスパートクラスは手前の第2試合場だ。垣原の出場する中量級は30名。日本人の平均的な体格に合致するせいか、このクラスは毎回参加人数が多い。前回3位入賞の垣原は一回戦シードだったらしい。重量級の武藤のクラスは8名。いつも3〜4名なのだが、今回は何故か多かった。
木村の指示で3階の廊下の隅で準備体操。シャドウで体を温めた。周囲では他のジムや道場の連中も同じようにアップをしていた。川田の姿が見えないから、2階の廊下でやっているのだろう。10分くらい前に選手全員が試合場に集められた。階級別に整列させられた。11時半、予定通り開会式が始まった。役員挨拶、来賓祝辞。簡単なルールの説明をして20分ほどで終了した。試合開始は12時丁度。会場が慌ただしくなる。各試合場の審判団、タイムキーパーや記録係が配置に付き、役員席にも関係者が陣取る。木村は試合で使うグローブを役員から受け取って来た。グローブは脱着がしやすいように紐ではなく、マジックテープで止められるようになっていた。タイ製の10オンスだ。ヘッドギアはジムから持ってきたものを着用だ。グローブをしてマウスピースを口に入れる。いよいよ初試合だ。心臓がバクバクいっていた。中屋が何か話しかけてくれたが、緊張して答える気にもならなかった。硬い表情で頷いただけ。「怖いのか?」頭の中にもう一人の自分がいて、オイラに話しかけてきた。怖くない、と言えばウソになる。しかし何が怖いのだろう。相手の川田が怖いのか?それもある。でもそれだけではない。試合が怖いのか?それもある。中屋の試合ではないが、勝負だから意地を張らなくてはならない。絶対に諦めない強い精神力が必要だ。そんなものがオイラにあるのだろうか。今まで生きてきて、一度も意地を張った事がなかった。面倒なこと、困難な事があると逃げるように生きてきた。学校で虐められても恐ろしくて、言い返したり、反撃したりも出来なかった。そんな弱いオイラが格闘技の試合場に立つ。初心者クラスとはいえ、川田はオイラを苛めていた奴らよりも確実に強いだろう。勝てそうな気がしなかった。得体の知れない恐怖に押しつぶされそうになった。息苦しい。木村が「相手は小さいから、ジャブと前蹴りで中に入れさせないように。腰上4本ルールだから、ミドル(キック)をバンバン蹴ってね。そうすりゃ相手は入って来れないよ。無理に打ち合う必要はないけど、ガードはしっかりね。大丈夫、フレッシュマンクラスだから、相手は大した事は無いから。」そんな木村のアドバイスを冷静に聞いている余裕がなかった。先ほどの垣原ではないが、無愛想に頷いただけだった。今のオイラでは頷くのが精一杯だったのだ。
試合開始のアナウンスがあった。オイラは赤。川田は白だ。名前を呼ばれて試合場の中に入った。柔道場なので下は畳だ。中央に赤と白のビニールテープで立ち位置が示されている。怖いので川田とは目を合わさないように赤線の手前に立った。川田はオイラを睨みつけているようだ。強い視線を感じる。主審はプロの試合で見たことのあるレフェリーだった。試合場の角の対角線上に椅子があり、座っている二名の副審も同様だ。主審はオイラと川田に「正面に礼!」上席に礼をした。「主審に礼!」、主審に礼をする。そして「お互いに礼!・・・構えて!」オイラと川田はファイティングポーズを取った。それを確認した主審が「始めぃ!」試合が始まった。
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