第21話 オタクは負けない

 

 朝5時に目が覚めた。いつもはこれから走るのだが、昨日試合したので今日は走るのは休みだ。走る気はなくても、この時間に目が覚める癖が付いてしまっている。自然と起きてしまう。とはいえ昨夜は熟睡出来なかった。試合の興奮が納まらなかったのと、何も出来ずに負けた自分への嫌悪感が入り混じって、眠りに集中する事が出来なかったからだ。
 結果こそ準優勝だが、決勝戦はビビって何も出来なかった。実力で負けたのなら仕方が無いが、最初から気持ちで負けていた。「もう少し頑張れば、何とかなったのではないか。」、心の中で何度も自問自答した。もう結果が出ているのだから、そんな事をしても無駄な事。分かってはいるのだが、自分に負けた自分が許せなかった。しかし「本気でぶつかっても、志賀には勝てなかっただろう。根性だけではなく、技術的にも向こうの方が上だった。」 屁理屈こねて弁解するもう一人の自分がいた。一晩中、布団の中で悶々としていた。

 昨日は全試合終了後、表彰式があった。武藤も柿原も準決勝で負けたので3位だった。オイラも含めて、全員上位入賞だ。記録だけ見れば素晴らしい結果である。しかし準優勝も3位入賞も負けて貰う賞だ。嬉しさよりも口惜しさの方が大きかった。賞状と賞品を貰った。3位にはパンチンググラブ。準優勝者にはスパーリングで使う14オンスのグローブだった。真っ赤なタイ製品だ。オイラは今まで自分のグローブを持っていなかった。いつもジムにあるのを借りていたのだが、いろいろな人が使うので汗臭く、あまり良い物ではなかった。いつかは自分のが欲しいと思っていたのでこれは良かった。賞状を見ると多少は晴れがましい気持ちにはなる。今までの人生で卒業証書以外の賞状をオイラは貰った事がなかったからだ。嬉しいのか口惜しいのか、複雑な心境だった。
 帰りは木村や中屋、武藤とオイラの4人でお茶を飲んだ。スポーツセンター近くのファミレスで、ピザやサンドウィッチをツマミながら軽い打ち上げをした。木村は宮田から、帰りにみんなで食事でもするように金を貰っているらしい。こういう時は普通ならアルコールでも飲むところだろうが、オイラも中屋も未成年だ。木村も武藤も酒は好きらしいが今日は試合をした。頭部を殴りあった後だから酒は厳禁だ。健康管理には気をつけなければいけない。強くなりたければ、我慢することも必要なのだ。武藤が我慢するのは仕方ないとしても、木村は試合をしていないのだから飲んでも構わないと思った。木村もジュースを頼んでいた。オイラたちに遠慮したのかと思ったが、来月試合が決まっているらしい。3月25日土曜日の興行に出るそうだ。試合までまだ1ヶ月以上ある。減量がキツくないのなら多少は飲んでも構わないと思う。しかし木村は自分にルールを課していた。それは「試合が決まると禁酒する」。プロ選手でも飲む奴は飲む。体重さえ大丈夫なら前日でも飲んでいる豪傑もいる。木村は真面目な性格なのだろう。たとえ数ヶ月前だろうと、試合が決まるとその日から禁酒をしているそうだ。ストイックな姿勢に木村のプロ根性を感じた。
 垣原は帰ってしまった。優勝できなかったのが面白くなかったからだろうか? 垣原は普段から殆んど喋らないので、ジム内で親しい人間はいない。学生らしいがどこの学校に通っていて、普段どんな生活をしているのか木村も知らないそうだ。入門するときに書いた申込書には、勤務先や学校名を記載する欄があったから宮田や佐々田は知っているかもしれない。木村に言わせると、垣原が喋らないのはジム内で親しい人間は作らない様にしているのではないか。周囲の人間は皆ライバルと考えているのだろう。アマチュア大会ならトーナメント戦だから、同じ階級にエントリーしていれば対戦する可能性もあるが、プロの試合で同門対決はありえない。スパーリングでやられたりすると口惜しいが、試合をすることはないのだから敵対視する必要は無い。あまり神経質に考えることはないと思うが、これも垣原なりのプロ根性なのだろう。何れにせよ気難しそうな奴だから、あまり近寄らない方が良い、と思った。
 7時少し前にファミレスを出た。皆は駅へ行くが、オイラは徒歩なのでここで別れた。早く一人になりたかった。集団でいることに慣れていないのと、決勝戦は気持ちで負けてしまったのでバツが悪かったからだ。夜道を一人で歩いていると、今日の事ばかり考えてしまう。勝った試合を思うと自分で自分を誉めてしまうが、最後の試合だけは後悔ばかりが残る。思い返すたびに情けない気持ちになった。

 月曜日、普段どおり学校へ行った。親しい友人はいないので、オイラがキックをやっているのを知っている奴はいない。当然試合に出たのを知っている者もいない。優勝していたら、自分から喋っていたかのかもしれないが、負けたので黙っていた。鼻血は出たが額は切れていないし、顔も腫れていない。仮に傷だらけだったとしても、誰もオイラには関心はないから尋ねられる事もなかっただろう。
 学校が終わると、いつも通りジムへ行った。今日は練習しないが、木村からジムに顔を出すように言われていたのだ。プロの連中は試合の翌日、必ずジムに顔を出す。ファイトマネーの精算のためだが、もう一つ理由がある。それは無事な姿を確認するためだ。試合の翌日に体調を崩してはいないか、無事な姿を宮田や佐々田に見せて安心させるためなのである。来ない、と思ったら部屋で死んでいた。過去にそんな事例はないが、試合をさせる方にしたら最後まで心配である。会長やトレーナーの仕事は強い選手を育てる事、客の呼べる選手を育てる事だが、一番大事なのは選手が引退する時に五体満足な体で親や家族の元に帰す事なのだ。
 宮田も佐々田も笑顔で迎えてくれた。ジムの連中も「お疲れさん!」、「おめでとう」、皆誉めてくれた。しかし決勝戦での不甲斐ないザマは、木村から聞いているはずだ。口では誉めてくれたものの心の中では、オイラの事を臆病者と思っているのではないか。そう思うと、どうしても疑心暗鬼になってしまう。考えすぎかもしれない。そんなに深刻に考える必要はないのかもしれない。素直に準優勝の感激に浸れば良いのだが、決勝戦では自分の気持ちの弱さを思い知らされた。
 気持ちが弱いのは今に始まった事ではない。小学生の頃からイジメにあっても反撃をする事が出来なかった。人と喧嘩をする度胸もないし、行くところまで行く覚悟がなかった。相手に恫喝されると、ビビってしまって何も出来なかった。そんな心の弱さを克服したくてキックを始めたのに、全然治っていなかった。治すには試合をするしかない。そして勇敢に戦って勝つしかないのだ。宮田に尋ねると、次の大会は4月辺りに予定されているらしい。場所は決まっていないそうだ。しかし今回準優勝をしたオイラは、もうフレッシュマンクラスには出られない。次からはエキスパートクラスになる。ヘッドギアなし、時間も2分から3分、出場選手のほとんどはプロ希望の強敵ばかり。そんな連中の中でオイラはやって行けるのか? 不安になった。でもやらなければ・・・とにかくやらなければいけない。最初は試合に出る気はなかった。自分には無理だと思っていた。そんなオイラが試合を望んでいる。今から考えると、オイラの人生を大きく変えたのは決勝での敗戦だった。しかしこの時は、そんな事を考えもしなかった。