第1話  オタクなあいつ

部屋の時計を見ると午後の2時を回っていた。点けっぱなしのラジオは昼のワイド番組をやっている。毎日、仕事で乗るトラックで聴いているのだが、今日は試合だから仕事を休んだ。あと3時間もしたら家を出ます。試合?・・・ボクシング?K1?いやいや違います。キックボクシングです。何それ?なんて言わないで欲しい。
 キックボクシングは60年代後半から70年代にかけて“マッハのスポーツ”なんて呼ばれていた。東洋ライト級王者・沢村忠がいた頃はスゴイ人気で、TV局も毎週のように中継していた。「懐かしい!」なんて思う人は結構、イイ歳ダネ。沢村は全盛時代、千葉真一の空手映画にもライバル役で出演した事もあったし、長島や王を押さえてプロスポーツ大賞を受賞したくらいだから、当時は本当にスゴイ人気だったのだろう。しかしキックの人気は沢村の人気だったのか?77年に沢村忠が引退してからTV放送もなくなり、人気も凋落。80年前後は「冬の時代」と言われ、団体が四分五裂。興行の回数も減りジリ貧状態が続いた。


 オイラが品川区内にある大崎ジムに入門したのが88年、17歳の時だった。この頃は「冬の時代」もそろそろ終わろうとしていた。今でも信者がいるUWFが人気で格闘技ブームが起こっていた。『格闘技通信』『ゴング格闘技』等の専門誌が軒並み創刊され月に5誌も6誌も出ていた。小学生の頃から梶原一騎の漫画の影響を受けていたオイラは漠然と「格闘技をやりたい!」と思っていた。いや、本当はそんな勇ましいものではなかった。小学校〜中学〜高校とイジメにあっていたのだ。幼いときから気が弱く、運動も苦手だった。勉強もまるでダメ。これでは苛められて当然だったろう。子供の世界では運動がダメなのは致命的だ。見るからに弱々しい風貌でいつもオドオドしていた。カラまれても言い返すことも出来なかった。周囲の連中はそんなオイラをバカにしては、サディステックな欲望を満足させていたのだ。強くなりたかった。「強くなって、いつか復讐してやろう。」内心、そう思っていたオイラが選んだのはキックボクシングだった。現在は修斗やPRIDEに代表される総合格闘技が全盛だが、当時は打撃格闘技がハバを利かせていたし、人間関係の取り方に自信のないオイラは人と密着しなければならない組技競技が生理的に苦手だった。『柔道一直線』は好きだが、『空手バカ一代』、『キックの鬼』、『紅の挑戦者(チャレンジャー)』には興奮したからね。最初は空手をやろうかと思ったが、武道系の格闘技は合同練習が主体となる。前述したように人間関係に自信がないオイラは「人と一緒」、というのは苦痛でしかない。やはり個人主義が徹底しているジムの方が居心地が良さそうだ。
 初めてジムに見学に行ったのは高校2年になってしばらくした頃、雨降っていたから梅雨時だったと思う。学校帰りに雑誌の広告を頼りに観に行ったのだ。JR大崎駅から10分くらい歩いたところにあった。この辺りは零細の町工場が多い。ジムは隣接する鉄工所の敷地の中にあるプレハブ作りの建物だった。会長は鉄工所の経営者の宮田という40代半ばの小太りした男。威勢の良い典型的な零細企業の経営者という感じの男だった。元選手で現役時代は王者にはなれなかったが、ライト級で日本ランキングに入っていた事もあるらしい。もっともキックは団体がいくつもあって、ランキングもボクシングのようにキチンと整備されていないのであまりアテにはならない。それにランキングなんてブランクを作ったり、連敗すると下がっていく。最後はランク外に出てそれっきり。団体が乱立していても王者にならなければ名前は残らないのが現実だ。
 初めて訪れたジムは殺伐とした印象しかない。怖そうな顔をした数人の男たちがサンドバッグを叩いたり、リング上でスパーリングしていた。動きの悪い選手を宮田が怒鳴っていたのに圧倒された。ビビった。そんなシーンを目撃したため見学には行ったものの、生来の気の弱さからすぐに入門する決心が付かなかった。2ヶ月くらい悩んで入門したのは夏休みに入った頃だった。しかし今まで運動した経験がないオイラは初日から悪戦苦闘。宮田から基本的なパンチやキックの出し方を教わったもののセンスのかけらもない動きに、さすがの宮田も失笑していた。おまけに前述したとおりオイラは都会のモヤシっ子。腹筋も懸垂も一回も出来ないという情けない体力レベル。この頃の話をすると宮田は「すぐに辞めてしまうと思った。」。現在は珍しくないが、当時はズブの素人で入門してくる奴は少なかった。大抵は空手や拳法の経験者。ケンカ自慢の元不良なんてのもいた。このジムには50人ほどの会員がいるのだが、そのうちプロ選手は10人くらいだったと思う。プロといってもそれで生活しているわけではない。全員バイトや仕事が終わってからジムにやって来る。チャンピオンや有名選手はまだいない。皆、前座の3回戦ばかりだ。ジムの経営も決して楽ではない。宮田が鉄工所を経営しているから続いているようなもの。宮田の他、このジムのスタッフはトレーナーの佐々田。30代半ばのサル顔の男だった。薬剤師で昼間は蒲田で薬屋を経営しているらしい。元々は選手時代の宮田の後輩で、安い時給でトレーナーをしているそうだ。自営業で時間の融通も利かなくてはこういう世界に携わるのは難しい。好きじゃなきゃ出来ない世界だ。
 ジムは道場とは違い、個人個人練習メニューも異なっているし、プロジムなので主役は「選手」や選手希望の「練習生」だ。試合の近い選手を宮田や佐々田が付きっ切りで面倒を見る。オイラのような体力作りの会員は放牧状態。つまり放ったらかしだ。選手育成だけを考えれば体力作り会員などは邪魔でしかないのだが、ジム経営を考えたら沢山いた方が良い。会費を払って来ている会員が長続きするように、時々声をかけたり、トンチンカンな動きをしている会員も指導しなければならない。この辺がジムという練習形式の難しいところだろう。道場形式の合同練習なら全員メニューが同じだから号令だけかけていれば良い。しかし人には向き、不向きがある。Aという人間には向いている動きが必ずしもBという者にも有効という事はない。身長、体重、手足の長さ。そして才能や性格も人それぞれ。それに年配の会員が若い奴と同じメニューを行うのは無理。一人一人に合わせた事を教えなければならないのだから、教える方にしてみたら効率が悪い。佐々田に言わせると「一日ジムにいると疲れる。」そうだ(笑)。
 初めて佐々田に声をかけられたのが、初日の練習の最後に傾斜の付いた腹筋台で腹筋をする時だった。一回も出来ないで腹筋台の上でモタモタしているオイラを見かねたのか、佐々田が後ろから押してくれた。そして「腹筋台はまだ無理だな。リングのロープに足を引っ掛けて動かしていろ。」学校が夏休みなので、毎日通って足を引っ掛けては「上体起こし」のような運動を繰り返した。2週間くらい経ったある日、試しに腹筋台で腹筋をやった。何と!30回出来た。たかが腹筋というなかれ。モヤシのオイラだけど、何だかチョットだけ強くなれた気がした。その光景を見ていた佐々田が「エライぞ。よく頑張ったな!」今まで人に誉められた事のないオイラにとってこれは感動でした。
それからなのです。オイラの『キックの鬼』への道が始まったのは。