第20話 落日の血闘

 

 予選3試合を勝ち進み、次は決勝戦だ。初めての試合で、まさかここまで来る事になるとは思わなかった。一回戦勝てれば良い方だと思っていた。決勝の相手は志賀という、大学の空手同好会の選手だった。しかし志賀のセコンドに、日本ライト級王者、タイガー秋山の姿があった。どうして?志賀の友人なのか?格闘技の情報に精通している中屋に尋ねたら、秋山は普段は学生で、志賀と同じ大学らしい。同好会というのも秋山がキック転向前にやっていたフルコン空手団体の所属のようだった。普段一緒に練習しているのだろうか。だとしたら、志賀の実力は秋山並みなのかもしれない。初心者クラスだから、そんな事はありえないのだが、気の弱いオイラは気になって仕方が無かった。志賀の姿を見ると、秋山の影がチラついた。落ち着け、相手は秋山ではない、志賀なんだ。自分で自分に言い聞かせた。準決勝を観る限り、志賀の戦い方はキックボクシングというよりも、パンチとローキック主体のフルコン空手特有の戦法だった。上下に上手く攻撃を散らして、時折ハイキックや後ろ蹴りを出す。タイプとしては垣原に近い。パワフルなローキックは脅威だ。決勝戦まで上がってくるのだから、今までの相手の中で最強だろう。「頑張らなければ、頑張らなければ・・・。」オイラは心の中で念仏のように唱えていた。
 第二試合場で行われているエキスパートクラスは各階級の準決勝が行われていた。中量級の垣原は強烈なパンチとキックで勝ち進んでいた。ここまでの予選2試合はいずれもKO勝ち。優勝候補の筆頭だ。重量級の武藤も1回戦を判定で勝って、準決勝進出を果たしていた。武藤は1回戦を勝った事に気を良くしていた。前回は準優勝とはいえ、人数が少なくていきなりの決勝戦で判定負けだったから、人に勝ったのは今日が初めてのはず。中屋が木村から聞いてきた話では、お互いに見合うシーンが多くて、どっちつかずの内容だったらしい。武藤は腰上8本クリアしていたおかげで旗が上がったそうだ。凡戦だったが勝ちは勝ちだ。どんな小さな試合でも人に勝つというのは大変な事なのだ。興奮して当然だろう。
 エキスパートクラス中量級準決勝。柿原の出番である。相手は高山という選手で聞きなれないチーム名の所属だった。応援団には社会人らしい連中がいたから、大学の同好会でもなさそうだ。おそらくキック連合に加盟していないジムの選手だろう。他団体の選手が所属ジムの名前で出ていると、マズイ事があるのかもしれない。だからジムの名前を変えて出場してくるというのは珍しい事ではない。高山は色白で気の弱そうな二十歳くらいの男だった。身長177〜178センチの柿原よりも少し高いから180センチくらいか。手足はタイ人のように長いが、細身で少しタレ目の容貌はどことなく頼りなさそうな感じがして、強そうには見えない。こんな男がエキスパートクラス準決勝まで残っているとは信じられなかった。名前を呼ばれて、自信満々の垣原はふてぶてしい態度で登場。対する高山は練習仲間らしいセコンド陣に、「頑張れ!」「ファイト!」と声をかけられて、試合場に入った。主審の「始め!」の声で試合がスタート。腕も太く、背中の分厚いガッチリとした体格の垣原とは力の差を感じさせる。どうせ早い時間に柿原がノックアウトしてしまうのだろう。誰もがそう思っていた。会場にいる連中の多くは、垣原の派手なKO勝ちを期待していたはずだ。そんな人々の予想を覆すことが起こるのだから、格闘技というのは本当に分からない。
 それは不思議な試合だった。開始早々から気の強い垣原がパンチを振り回しながらガンガンと前に出る。たちまち場外際まで押されてピンチに陥る高山。外に出たら減点だ。更にパンチで詰めて来る垣原のボディに高山の左の前蹴りが当たった。一瞬、柿原の動きが止まる。前蹴りといっても、高山の蹴りは、「蹴り」というよりも子供が嫌々するような、素人のようなものだった。腰も入っているとは思えない。こんな蹴りでどうして垣原の動きが止まるのか理解できなかった。そこへ高山のワンツーがヒット。このワンツーもクリーンヒットしても利くとは思えない程度にしか見えない。高山はそこから追撃するでもなく、場外際からスーッと逃げてしまう。その繰り返しであった。短気な垣原は自分の攻撃が当たらない展開に苛立ってきたのだろう。強引にパンチで突っ込んでいくのだが、その度に前蹴りで動きを止められて逃げられてしまう。終了間際には高山の前蹴りがカウンターで決まり尻餅を付くシーンもあった。高山はまるで試合場を漂うような不思議な動きをしていた。試合は終了。前に出ていたのは垣原なのだが、高山の前蹴りとワンツーで攻撃は封じられていたのが有効だったのだろう。判定は3−0で高山であった。優勝候補の垣原が敗れたことで、場内からどよめきが起こっていた。この後、重量級の準決勝があるのだが、第1試合場では決勝戦が始まる。そろそろ準備をしなければならない。またしても武藤の試合は観られそうもない。
 オイラはマスピースを口に入れ、ヘッドギアを被る。中屋にグローブをはめてもらって呼び出しを待った。反対側では同じようにヘッドギアとグローブをした志賀が立っている。秋山が志賀の耳元で囁いていた。何と言っているのだろう。オイラを倒すための秘策でも授けているのだろうか。情けない話だが、そう思うとビビッた。映画や劇画の世界ではないのだから、直前にアドバイスされただけで強くなるわけはないのだが、どうしても弱気になってしまう。いけない、こんな事で勝てるのだろうか。
 審判や役員の準備が整ったらしく、名前をアナウンスされた。中屋の「ファイト!」の声に後押しされるようにオイラは試合場に入った。面と向ってみると、志賀は175センチのオイラよりもわずかに低いくらい。手足もそれほど長くは無い。上手くアウトボックス出来れば、勝てるかもしれない。お互いに礼をして、主審の「始め!」試合がスタートした。
 オイラは基本通り、左ジャブから右ローキックで入ろうとした。それより早く、志賀が動いた。いきなり右のローを蹴って来たのだ。あわてて左の脛でブロックしたのだが、志賀のローキックは重い。普通、脛でガッチリと受けると、蹴った方にダメージが残るものだが、予想以上の破壊力を持つ志賀のローは強烈だった。オイラの受け方が甘いのだろう。脛をコンクリートの角にぶつけたような痛みが走った。その場に座り込みたい衝動にかられたが、それではダウンになってしまう。務めて平静を装うのだが、左脛にダメージを負ったのは誰の目にも明らかだ。「ロー効いてるぞ!」、叫ぶ秋山の姿がオイラの視界の隅に飛び込んできた。「どうしよう。」オイラは半分パニックを起こしていた。相手は志賀ではなく、秋山の分身のような気がしてきたのだ。追撃のローキックがオイラの左太股に飛んでくる。オイラは脛で受けるか、バックステップしてかわすか、一瞬迷った。時間にしたらコンマ数秒の世界だろう。オイラはバックステップしてかわす方を選択した。これ以上、脛にダメージを負いたくないからだ。そう書くとカッコイイが、現実にはビビって腰が引けていただけだ。第1試合で相手に背中を見せて逃げたのと同じだ。見っとも無く逃げるオイラを見て、「大丈夫、大丈夫。落ち着いて!」中屋の声が飛ぶ。その声に後押しされるように右のミドルを返すのだが、志賀は肘でガッチリと受ける。まるで大木を蹴ったかのような感触だった。右脛にも痛みが走る。オイラのミドルを受けても、志賀は全くバランスを崩すことはなかった。志賀はワンツー、ロー。ワンツー、ミドルとパンチに蹴りを混ぜて前進してくる。クリーンヒットこそされないが、ジリジリと下がってしまう。何をやっても勝てないような気がした。もうこの後の展開はKOされないように、志賀の攻撃をかわすのが精一杯。単発で蹴りやパンチを返すのだが、腰が引けているのでカウンターにもならない。ダメージ一つ与える事が出来ない。垣原を破った高山選手のように戦えれば良いのだが、オイラの実力では無理な話だ。おまけにビビって逃げ回っているのだから、そんな芸当が出来るわけも無く、試合は終了した。旗は当然、志賀に上がった。負けてしまった。成績は準優勝だが、内容は最悪だった。ビビって何も出来なかった。後悔ばかりの決勝戦だった。