文化放送にルリ子しゃん登場!!

 

ラジオの文化放送12月15日(木)19:30〜21:00 特別番組:INAXスペシャル『ルリ子のラジオショー』。浅丘ルリ子&伊東四朗が出演する大人のラジオショーが放送です。タイトルが艶めかしくてイイですね。『ルリ子のラジオショー』、どこか60年代の匂いがします。久々にルリ子しゃんでじょんじょろりん!!したくなります(こらっ!)。

              

聴きました。90分のうち前半は、昭和の時代にルリ子しゃんがやっていたという設定の架空のラジオ番組、『魅惑の歌謡ナイト』を放送。『ある雨の午後』、『東京ブギウギ』や『上海帰りのリル』等の懐メロの合間に伊東四朗を相手に寸劇をやるという展開。例えば、伊東四郎とルリ子しゃんが夫婦で、帰宅した伊東四朗とルリ子しゃんのラジオを聴く。伊東四郎が「この喋っている女性は良い声だから美人だな。」ルリ子しゃんが「そうかな。きっとオヘチャだよ。」伊東「そのうちにTVに出るぞ。TV買わなくちゃ。」などという会話をしたり。
 別の寸劇では、伊東四朗が行きつけのバーのママさん・ルリ子しゃんを口説くのですが、中々OKがもらえない。昭和30年代という設定だから、「出来たばかりの東京タワー、行かない?」なんて台詞もありました。番組で使われた懐メロはルリ子しゃんが自分で選曲したそうです。特に日活時代の話もなく、歌ばかりなので最初はチョッと退屈でした(失礼)。後半は伊東四郎を相手にフリートーク。最初は好きな懐メロの話から始まって、曲名に東京の付いた歌の話に。伊東四郎が『東京バカ踊り』と言っても、ルリ子しゃんは自分が出ていたのを憶えていないようで無反応でした(笑)。ルリ子しゃんは寅さんで歌った山口淑子の『東京セレナーデ』が好きで、アカペラで歌ってくれました。
 その後、デビュー当時の話をしてくれました。「私は昭和29年に『緑はるかに』の募集があって・・・映画を撮り始めていました。30年の5月に封切られたんです。昭和30年はもうそれしか憶えてないです。もうそれで忙しくて・・・(『緑はるかに』は)初めてのカラーだったので赤、青、黄の3台の大きなカメラが同時に回るんです。そうでないとカラーにならないから・・・『カルメン故郷に帰る』はイーストマンカラーでしたけど、私たちのはコニカラーで、ライトが凄くて、撮影は5月だったけどセットの中は暑くて。山の中や吊り橋のロケだとカメラを3台持っていくから置く場所が無くて大変。今のと違って、もう大きなカメラだったんです。日活ではこれがはじめてのカラーでした。・・・もう51年経ちますけど、日活にいた時はあっという間の20年でした。一年に16本撮っていたときもありました。1本を20日、早い時は14日で撮ってました。(以前金子信雄があの頃はワケ分からずにセット行ってやってた、と言われて)私も台本4冊持ってたときは、誰の相手役やってるのか分からなくなって(笑)・・・夜はセットで寝てました。徹夜ですから・・・家へ帰った記憶はあんまりありません。(セットで)寝ちゃ朝早くから横浜ロケだったりしましたから。(一人で行ってたのですか?の問いに)・・・最初は父が付いて来てくれて、家族が代わる代わる来てくれましたけど・・・ホントに忙しい毎日でした。(普通の女の子の遊びなんてのは?の問いに)、出来ないですね。だから撮影所のお兄さん、お姉さんたち・・・照明部さん、録音部さん、キャメラマンさん、そういう人たちに育てられたようなもんです。もう学校みたいなものでした。お姉さんたちは・・・女優さんたちで・・・日活は新しい会社でしたから、東宝から新珠三千代さん、松竹から月丘夢路さん、北原三枝さん。大映から南田洋子さん。男の方だと三橋達也さん。色々な人がいました。小林旭さんが1期生だったのかな?宍戸錠さんとか皆と・・・。(長門裕之さんは?の問いに)長門さんも・・・どっかからいらしたんです。私の一年後が裕次郎さんでした。(じゃあ裕次郎さんは・・・?)私の一年後輩です(笑)。」
 その後、ファッションの話に・・・「その頃、ファッションなんかでも新聞の『緑はるかに』の挿絵もやっていた中原淳一さんは「ひまわり」や「それいゆ」とかに洋服デザインを書いていて、中原先生の洋服を着られるのでもう嬉しくて、物のない時代でしたから。(あの頃の)写真は取ってあります。」
その後、満州から引き揚げた話、昔聴いたことのあるラジオ番組の話とかして番組は終わりました。