第19話 流血の抗争

 

午後3時過ぎにフレッシュマンクラス各階級の2回戦が終了した。垣原の出場しているエキスパートクラス中量級の参加人数は30名なので、他の階級よりも一試合多い。第2試合場では3回戦が行われていた。前回3位の垣原は1回戦シード。2回戦はフルコン空手道場の選手を右ミドルキックからパンチの連打で豪快にKO。そして3回戦はキックボクシングのジムに所属している選手を左アッパーから右ストレートでのけぞらせ、左のミドルキックをボディに叩き込んでのKO勝ちで準決勝進出を決めていた。可哀想にボディを蹴られた相手選手は、激痛でのた打ち回ってしばらく起き上がれなかった。垣原は2連続KO勝ちだ。何れも早いタイムでのKOなので、合計しても3分も戦っていない。ダメージも無かった。派手に勝ち進んでいても垣原は表情一つ変えない。ふてぶてしい態度は、プロデビューしたら間違いなくヒール(悪役)になるだろう。
 第2試合場での中量級3回戦が終わると、8名参加のエキスパートクラス重量級が始まる。武藤の出番である。グローブを付けた武藤の表情は硬い。予選2試合を経験した事で、試合前の重圧感はオイラにもよく分かる。武藤も緊張しているのだろう。木村が何か耳打ちしていた。何を言っているのだろうか。武藤の戦いぶりをゆっくり観たいところだが、第1試合場では準決勝が始まる。
 フレッシュマンクラス軽量級準決勝、第1試合。今度のオイラの相手は田村という選手だった。所属を見ると、大学の空手同好会らしい。部ではなく同好会。体育会ほどハードさは要求されない。練習だけではなくバイトや遊びもやって、大学4年間、楽しくやって行こうという集まりなのだろう。田村には応援団らしい連中が10人くらいいたのだが、その中には若い女が3人もいた。田村の彼女もいるのだろうか。仲間たちや彼女に囲まれて試合に出て、準決勝進出。勝っても負けても入賞だ。この後はどこかで祝杯でも挙げるのか。高田馬場駅近くには学生相手の居酒屋がたくさんある。田村が楽しそうに飲んでいる姿がイメージ出来た。きっとオイラとは違って、毎日楽しく学校に通い、夜はキックのサークルで練習。卒業したらどこか大きな会社に就職して、キレイな彼女と恋愛、結婚して楽しく生きて行くのだろう。そんな人生のストーリーを想像してしまった。それに比べて、オイラには何もない。学校では勉強も出来ない。苛められているので友達もいない。まともな世界では居場所がなかった。今のオイラにとってはキックしかない。別にプロ希望ではないし、命賭けでやっている訳でもない。勿論そんな根性も無い。しかし今のオイラにはこれしかなかった。ジムに行けば誰かいる。宮田や佐々田や中屋がいる。挨拶をすれば返してくれる。練習をすれば充実感があったし、汗をかくと気持ちが良かった。外の世界では誰にも相手にされないオイラでも、キックの世界だけは違うのだ。しかし田村にとっては、格闘技はレクレーション程度のものに違いない。学生時代の良い思い出作りか。そんな奴に負けてたまるか。この時のオイラには何故か怖いという感覚が麻痺していた。負けて、負けてたまるかよぉ。オイラはマウスピースを口に入れ、ヘッドギアを付けた。中屋にグローブを付けてもらい、軽くジャンプ。呼び出しを待った。反対側では田村も同様に呼び出しを待っている。女の子の一人に「頑張って!」と声をかけられて、笑顔で頷いていた。その姿に腹が立った。畜生、絶対に勝って、女の前で恥をかかせてやる。
 役員の準備が整い、アナウンスで名前を呼ばれた。オイラは試合場に入る。目の前の田村をチラリと見た。目が笑っているようだった。オイラをバカにしているのか。主審の「始めい!」の声で試合がスタートした。田村の試合を1回戦は見ていないが、2回戦は見ている。蹴りよりもパンチの選手だった。フットワークを使い、打っては離れ打っては離れと出入りの激しいボクシングをしていた。ヒットアンドアウェイというやつか。おまけにディフェンス技術も巧みで相手のパンチをかわすのが上手かった。下手にパンチで打ち合うと打たれてしまうだろう。鼻血が出るのは避けたい。パンチの上手い選手にはローキックで攻めるのが定石だ。ローキックで相手の足を潰して、フットワークを使えないようにするのだ。オイラは例の如く、左ジャブから右のローで入った。しかし田村はオイラのローキックを読んでいたのか、バックステップしてかわした。空振りした右足を元の位置に戻そうとした時に、田村は素早く踏み込んでワンツーを打ってきた。あわてて両手で顔面をガード、しかし田村の攻撃は止まらない。田村はガラ空きになったオイラの腹に左のボディブローを打ってきたのだ。右ひじでわき腹をガードしたが、わずかに田村のパンチが早かった。イテエ・・・一瞬、息が止まる。腹が苦しい。ヤバイ、反撃しなければ。オイラはワンツーを振り回したのだが、既に田村はその場にいない。フットワークを使い逃げてしまった。オイラのパンチが届かない距離にステップを踏みながら静観している。完璧なヒットアンドウェイだ。「ナイスボディ!」田村の応援団から声援が飛ぶ。畜生!オイラは左のミドルキックからワンツーで突っ込んだのだが、キレイにかわされてしまう。パンチを数発振り回したのだが、スウェーやウィービング等、上体を巧みに使いキレイにかわされてしまった。空振りをしてこちらがバランスを崩したところに田村のパンチが飛んでくる。一撃必倒の破壊力は無いが、スピードがあった。鼻っ柱に数発貰った。鼻の辺りがカーッと熱くなった。グローブで拭ってみると血が付いている。出血したようだ。このアマチュア大会はプロの試合に比べてストップが早い。特にオイラの出ているフレッシュマンクラスはエキスパートクラスよりも止めるのが早い。鼻からの出血がヒドイとTKOで負けてしまう可能性がある。「止め!」主審が試合を止めた。まさか・・・これで終わってしまうのか。まだオイラの攻撃は一発も田村に当たっていないのだ。くそう、こんな・・・こんな奴に負けてたまるか。こんないつも彼女や仲間たちに囲まれて大学に行って、楽しくやっている奴なんかに負けたくない。これで負けたら、オイラは田村に全ての面で劣っていることになってしまう。止めないでくれ!主審はポケットからティッシュを出して、オイラの鼻を拭った。折れていないかチェックする主審に、努めて笑顔で「大丈夫です。」と答えた。こんな時に笑顔が出るとは自分でも驚いた。主審は続行を支持した。しかし劣勢であることに変わりはない。こんな時、どうすれば良いんだ。その時、中屋の声が飛んできた。「あわてない、あわてない!パンチとローで上下に散らして!」。中屋の指示は的確だった。ワンツーから左のローキックに繋げた。ワンツーは当たらないのだが、ローキックはクリーンヒットしたのだ。上体を動かして避けると、下半身のガードがおろそかになる。オイラのパンチを華麗にかわす田村だが、下半身はノーガードだった。上体が崩れているために、オイラのローをスネで受ける事が出来ないのだ。ローキックが当たって、多少は落ち着いてきた。「パンチも大振りしないで!小さく小さく!」そうだ、仲間たちに声援を送られている田村に嫉妬して、オイラは我を忘れていたのだ。基本に帰ろう。パンチは脇を締めて、真っ直ぐに打つのだ。そして必ずローキックに繋げた。上下に散らしてくるオイラの攻撃を警戒しだしたのか、田村は上体を使って避けなくなった。ローキックが有効なのか、フットワークもあまり使わなくなってきた。「ミドル!ミドル!」中屋の声が飛ぶ。腰上4本ルールだから、ミドルを蹴らなければならない。ワンツーから左ミドルを蹴る。当たった。肘でブロックされるものの、とにかく当たった。田村も負けずに蹴ってくるが、田村の蹴りは、腰が入っていないチャチなものだった。パンチがスピーディでコンビネーションも良いのに、蹴りはたいした事が無かった。強敵と思った田村が小さく見えた。「勝てるかもしれない。」チラッと思った。パンチでは田村だが、蹴りはオイラの方が上だ。とにかく蹴った。田村がパンチで来ようとしたところに左ミドルを合わせる。それが効を奏したのか、田村の動きが止まって来た。よく見ると田村は肩で大きく息をしていた。こいつもしかして・・・スタミナがないのか。試合時間は2分だ。まだ1分と少ししか経ってはいない。それでスタミナ切れとは、普段どんな練習をしているんだ?朝走っていないのか?。同好会だから毎日練習してはいないのかもしれない。「ラスト30!」田村の応援団が叫ぶ。その声に刺激されたのかのように、田村はパンチを打ちながら踏み込んで来た。顔面をガードしながら、とっさに左の膝を上げた。オイラの膝頭は踏み込んできた田村のボディを浅く突き刺した。膝蹴りがカウンターで入った形になり、田村の動きが止まった。ワンツーから左フックを打つ。ブロックされた。そこから田村の首をロック、首相撲から膝蹴りの連打だ。田村も首を取り返そうと自分の右手をねじ込んで来ようとする。そこでタイムアップ。試合終了である。田村の応援団からは「勝った、勝った。」。確かに前半はパンチを打たれて負けていたが、後半はスタミナ切れを起こした田村にオイラの蹴りが良く当たっていた。オイラの勝ちでも良いはずだ。審判の連中が田村の声援に惑わされなければ良いのだが・・・。しかしそんな心配は無用だった。「判定お願いします。判定!」主審の笛が鳴る。主審も2名の副審も赤の旗を上げた。オイラの勝ちである。決勝進出だ!鼻血が出た時はもうダメかと思った。諦めないで良かった。
 負けた田村は応援団の連中に労いの言葉を受けていた。負けたけど3位入賞だ。表彰式が終わったら、どこかで祝杯でも挙げるのだろう。そんな人気者に勝てた事が何より嬉しい。しかし勝利の余韻に浸っている暇は無い。次は決勝戦だ。中屋にグローブを外してもらいながら、次の試合、準決勝第2試合を見る。準決勝に上がってきた選手のことなど見ていなかった。別ブロックだったし、まさか自分が決勝に残れるとは思ってもいなかったからだ。一人はキックのジムの選手だったが、もう一人は空手の選手のようだった。重い回し蹴りで空手の選手が判定勝利した。トーナメント表を見ると、勝ったのは志賀という、田村とは違う大学の同好会の選手のようだ。しかしそんな事よりも気になる事があった。志賀のセコンドに見覚えのある顔があった。キック連合の新春興行でベルトを巻いた、日本ライト級王者・タイガー秋山がいたのだ。