第15話 青春の裁き
中屋は1ラウンド終了直前にダウンを取られてしまった。押されたような感じだったので、ダメージはないと思ったのだが、青コーナーに戻って来た中屋はフラフラしていた。西神のバテ気味のパンチだったが、カウンターで貰ったために利いているようだ。おまけに西神のパンチをかいくぐるようにローキックを蹴っていたので、普段よりも集中力を使った。そんな状態でダウンしたのだから、スタミナも消費してしまう。試合の時、尻餅を付いて立ち上がるという動作だけでも体力を消耗する。リングの中という異常な空間は、ちょっとした動きでもスタミナを急速に奪っていくのだ。そんな選手を支えているのは、毎日繰り返してきた練習と「勝ちたい。」という気持ちだけだ。
1ラウンド終了ゴングが鳴ったと同時に、オイラはリング下に置いてある椅子をロープの間に突っ込んだ。宮田がそれを受け取り、コーナーに設置、中屋を迎え入れる。佐々田はリングに入って中屋の口からマウスピースを外してオイラに渡した。オイラはそれを水で洗う。佐々田は中屋に深呼吸を3回、呼吸が整ったのを見てうがいをさせた。中屋は荒れた呼吸をしながら、「すいません。」と一言呟いた。佐々田は「まだ取り返せる。相手のパンチには付き合うな。ローキックだ。ローッ!苦しいのは相手も同じ。徹底的にローで行け!!ローキックだぞ!」インターバルの1分間に的確な指示を出すのは難しい。難解な動きや練習でもやっていないコンビネーションを言われても出来るわけがない。選手は頭が混乱していたりするから、セコンドの声が届かない事が多い。こういう時はシンプルな一言で良いのだ。佐々田は「ローキック!」というキーワードしか言わなかった。今難しい事を言っても無駄な事を、佐々田は良く知っているのだ。毎日の練習でも中屋はローキックを得意にしていた。一発の破壊力はないものの、左ジャブからの右ローキックやワンツーからの左ローキックの切れ味は中々のものだ。毎日、中屋を教えている佐々田は、彼の主武器はローキックという事を熟知している。だからこそピンチの時に明確な指示が出せる。選手の方も、普段から自分の面倒を見てくれるトレーナーの言う事だから指示通りに動けるのだ。選手とトレーナーの間に信頼関係がなければ、試合で良い結果は出せない。格闘技は個人競技だが、セコンドという司令塔がいなければピンチを潜り抜けるのは難しいからである。
横から宮田がタオルで中屋の汗を拭き、ワセリンを目じりの辺りに塗りつけた。「セコンドアウト」の声が響く。佐々田はリングから外へ出る。「ラウンド2!」のアナウンス、2ラウンド開始のゴングが鳴る。2ラウンド、西神の戦い方が変わった。1ラウンドとは違い、蹴りを使い始めたのだ。それもキチンとパンチから蹴りに繋げて来ている。中屋の内股に左ロー、ワンツーパンチ。そこから左の膝蹴り、中屋がバックステップして避けると、すかさず左ミドルを飛ばして来た。こんなまともな戦い方が出来るのなら、最初からやれば良かったのにと思った。おそらく先ほどのインターバルでセコンドに注意されたのだろう。しかし中屋にしてみれば、こういうセオリー通りに攻めてくる相手の方が戦いやすい。左ミドルを右ひざを上げてブロック、右足が地面に付いた時に反動をつけ、右のローキックを返した。中屋のローで西神のバランスが崩れる。1ラウンドに集中的に貰ったローキックが利き始めて来たのだ。西神が蹴りを使い始めたのは、左足に蓄積されてきたダメージが現れてきたからだろう。パンチだけだとローの得意な中屋の思うツボだ。西神陣営の作戦は、蹴りも使って攻撃を上下に散らして、中屋のガードが低くなった所にパンチを入れて倒すというものだろう。しかし中屋は西神のコンビネーションに惑わされる事もなく、蹴りやパンチをブロックしてみせた。更に左右のローキックを西神にぶち込む。西神も中屋がローキック狙いという事が分かっているので、しっかりブロックしてみせる。さすがにローキックだけでは通用しない事を悟った中屋は、パンチも使い出した。但し、無理に打ち合いには行かずにパンチはジャブやワンツーのみ。左ジャブから右ローキック。右ストレートと見せかけて左のロー。ワンツーから左のロー、左フックから右のローキック。パンチを打った後、必ずローキックに繋げるコンビネーションで西神を攻める。西神も負けてはいない。ローを蹴られてダメージの溜まった左足でミドルを蹴ってくる。悪そうな風貌は伊達じゃない。気の強さや根性は中々のものだ。2ラウンドは激しい打ち合い、蹴り合いで終わった。戻って来た中屋は息も絶え絶えだった。
椅子に座った中屋は激しい息づかいをしていた。完璧にバテている。スタミナの欠けらも残っていないように見えた。次はラストラウンドだ。西神も必死に攻めてくるだろう。こんな状態でもう1ラウンド戦えるのだろうか?ここまで来ると、テクニック云々ではない。意地と意地、根性比べになるだろう。もしオイラが中屋の立場だったら、と考えると怖くなった。プロのリングなんて、とてもオイラには無理だ。先ほどのインターバルでは無難に椅子も出せたし、マウスピースも洗う事が出来た。セコンドの手伝いとしては上手くやれたと思う。だからと言う訳ではないが、「(プロの試合も)出来るんじゃないの?」少し自惚れてしまった。今の中屋を見ていると、根性もない癖にイイ気になった自分が恥ずかしくなった。中屋は決してスタミナが無い方ではない。大崎ジム所属のプロ選手たちの中でもタフな方だと思う。そんな中屋でさえ、2ラウンドで疲労困憊してしまうのか。プロのリングという場所は、何と過酷な世界なのか。こんな時、佐々田は何と言うのだろう?
佐々田は先ほどと同じように深呼吸させてからうがいをさせた。「良いぞ、押してるぞ。次の回、倒して来い。倒さなきゃ勝てないぞ。次はラスト、動けなくなるまで打ちまくって来い!!」セコンドアウトを告げるブザーが鳴った。「行って来い!!」中屋の口にマウスピースを入れた佐々田は中屋の耳元で叫んだ。その声に後押しされるように中屋はコーナーを出た。最後に勝敗を決めるのは、闘志、根性だ。テクニック偏重の現代から見ると時代遅れかもしれないが、勝ちたいという気持ちが強い方に勝利の女神は微笑むのだ。どんなにテクニックが優れていても、闘志の伴っていない技術は生きないのだ。
オイラはここまでの展開を考えてみた。2ラウンドは互角だったが、1ラウンドはダウンで2ポイント取られているから10対8で西神。2ラウンドは明確な差が付かなかったので10対10。ここまで2ポイント差で西神がリードしている。最終ラウンドにダウンを取るか、KOしなくては中屋に勝ちは無い。しかし体力的に中屋はもう限界だ。大丈夫なのか?
最終ラウンドのゴングが鳴った。最終回は両選手ともリング中央でグラブを合わせてからスタートとなる。グラブを合わせた所でレフェリーが「ファイト!」。バテていたのは西神も同様だった。2ラウンドの攻防で一滴のエネルギーも残っていないようだった。数秒だが、中屋と見合うシーンがあった。西神陣営から「何してる、先に行け!」。その声で中屋も我に返ったのか?左のローキックを西神の左足の内股に叩き込む。西神もバテているために、中屋のローキックへの反応が遅れた。バランスを大きく崩す。崩しながらもワンツー。中屋も西神のパンチへの反応が遅れた。右ストレートが中屋の顔面にヒットした。中屋がグラついた。中屋の蹴り、西神のパンチが当たる毎に二人ともバランスを崩す。その姿に観客は沸く。こうなるともうガマン比べだ。しかしスタミナは僅かに中屋の方が上だった。中屋のローで西神の動きが止まりだしたのだ。時計を見ると、残りは30秒。「ラスト30!」佐々田と宮田の声が飛ぶ。中屋が右の蹴りを出した。ローキックか?と思ったら、中屋の右ひざは高く上がり足先が更に上に伸びた。ハイキックだ。中屋のハイキックが動きの止まった西神の顔面に飛んでいったのだ。消耗しているために、スピードは今ひとつだったが、右腕は水をかくように振り切り、腰も乗っている。キレイなフォームの蹴りだった。毎日毎日、佐々田の持つミットを蹴り続けて来たから、フォームだけは体に染み付いているのだ。だから体力は限界を超えていても、キレイな姿勢で蹴りを出す事が出来る。中屋にしてみれば、このハイキックは最後の一撃だったはず。この後、もう一発の攻撃も出す事が出来ない。それくらい消耗していたはずだ。当たるか?当たってくれ!西神は中屋がローしか蹴ってこないために、高い蹴りは想定外だった。目が慣れていなかった。そのために中屋の右足先が顎の細い西神にヒットした。中屋の執拗なローキックはこのハイキックのための布石だったのか?中屋は最初からこれを狙っていたのだろうか?だとしたら中屋の辛抱強さは並では無い。
残り時間はもう20秒だ。倒れろ!しかし西神は倒れなかった。顎が細いから打たれ弱いのかと思ったのだが、中屋のハイキックでは倒れなかった。グラついたものの、ロープにもたれ掛かるようにして踏ん張って見せた。西神もダウンさえしなければ、自分の勝ちという事が分かっているのだろう。だから意地でもダウンはしない。中屋が消耗していない状態で蹴っていれば、嫌でも倒れていただろう。もう中屋には、打たれ弱いと思われた西神を倒すだけの破壊力は残っていないのだ。辛抱強い奴だが、スタミナの計算を誤った。残り15秒、最後の力を振り絞り、中屋がパンチの連打で前へ出る。時間が無い。パンチの打ち合いには行くな、という佐々田の指示だが、これで倒さなければ勝ちはない。ロープを背にした西神にパンチの連打だ。しかし西神は両腕で中屋の攻撃をしのぐ。残り時間が10秒を切った。・・・5・・・4・・・3・・・2・・・1・・・試合終了のゴングが鳴った。
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