第4話 オタクの世界だ

 

 ジムに置いてあるヘッドギアを自分で付けた。プロの連中はヘッドギアもグローブも自分用の物を持っているのだが、体力作り会員のオイラはそんな物は持っていない。ジムに置いてあるのを拝借した。中屋も同様だった。グローブもジムにあった14オンスを使用した。自分では付けられないので、中屋は佐々田が、オイラのは宮田が付けてくれた。緊張した。これからリングで人と殴りあう。自分も殴るけど、相手も打ってくる。殴られたらどうしよう。怖い。こちらのパンチも当たるのか?分からない。やってみなければ分からない。自信はまったく無い。宮田がグローブのヒモを結びながら、「スパーは初めてだな。最初はジャブを突きながら左に回れ。無理に打ち合う必要はないけど、相手から絶対に目をそらすな。」。マウスピースすら持っていないので、ジムに置いてあったのを使った。水で洗うとはいえ、誰が使ったのか分からないものを口に入れるのは、気持ちの良いものではない。今回は仕方がないが、マウスピースくらいは自分で用意しておこう。初めて付けた14オンスのグローブは大きかった。こんなデカイのを付けてパンチを出すのか。すぐにバテてしまいそうだ。
 ジムの3分計のタイマーが休憩のゴングを鳴らした。ジムのタイマーは試合と同様に3分で鳴るのだが、インターバルは1分ではなく、30秒に設定してある。短い時間で呼吸を整えられるように、普段から慣れておくためだ。「リング空けてくれ!」佐々田がリング上でシャドウボクシングしていた連中に声をかけた。代わってオイラと中屋がリングに入った。6メートル四方のリングにオイラと中屋だけだ。ドキドキした。タイマーを見ると、あと10秒くらいでスパー開始のゴングが鳴る。佐々田が「2つやるから!パンチだけ。蹴りは無しだよ。」2つ、というのは2ラウンドと言う事だ。毎日練習しているとはいえ、数ヶ月前まで腹筋も出来なかったオイラにそんなスタミナがあるのか?これからスパーをするのに、既に心臓はバクバクいっていた。
 カーン!ゴングが鳴った。「はーい、スタート!」佐々田の声が飛んだ。プロ選手たちがやるように、お互いに「ヨロシク!」という感じでグローブを合わせる。オイラは宮田のアドバイスに従い、とにかく左ジャブを突きながら左に動いた。中屋を中心に時計方向に回る。右を打ち込む距離とタイミングを計るのだ。打たれるのが怖いので、右手は頬っぺたの高さまで上げていた。中屋は両の拳を肩の高さに構えて楽な調子で構えていた、と思ったら、いきなり素早い踏み込み!ワンツーを打ちながら突っ込んで来た。うわっ!とっさに出した左が中屋のオデコに当たった。一瞬、中谷の前進が止まる。その隙にオイラは中屋の左側に回りこんだ。「よ〜し、良い左だ。」宮田の声が飛んだ。中屋が出てくる所にカウンター気味に当たったとはいえ、ヘッドギアをしているしパワーのないオイラの左ではダメージを与えるところまでは行かない。しかしパンチが当たった。驚いた、と同時にイケルかも!と思った。また中屋が突っ込んで来た。オイラの左ジャブがまた当たった。少し落ち着いてきた。よく見ると中屋のパンチにはキレが無かった。踏み込みは伝統空手の経験があるせいか鋭いのだが、グローブを付けて打つ事に慣れていないのか?パンチはドスン、という感じの押すような打ち方だった。そのために単発でスピードがなかった。グローブを付けて打つパンチは素手で打つのとはまるで違う。素手の場合は拳を力いっぱい押し込むように打たなければ相手にダメージを与える事ができない。とはいえ、素手で打つ時は拳を痛めないように、意識してしっかり握っていなければならない。人間の頭蓋骨は堅いから、下手に殴ると骨折してしまうからだ。その辺を考えて殴ると、100%の力を拳に乗せることが出来ない。この辺が素手で打つ時の難しいところだろう。逆にグローブの場合は拳が保護されているので素手の時よりも思い切り殴れる。拳の握りも素手に比べてイージーでも大丈夫だ。しかしハードパンチャーと呼ばれるボクサーは、グローブをしていても自分のパンチ力で骨折してしまう事があるらしい。幸い?虚弱なオイラには骨折してしまうほどのパンチ力は無い。何れにせよしっかり握っていないとマズイのだろう。たまに素手でもグローブでも思い切り殴って拳を痛めた事がない、という選手がいるが、それは稀な例だ。
 オイラの左ジャブが当たったことで中屋の表情が変わった。細い目が逆三角形に吊り上がっている。「この野郎!」という怒りの表情になっているのが分かった。そんな中屋の表情を見ても、不思議と怖いとは思わなかった。街でそんな場面に遭遇したらビビってしまうだろうが、何故かリングの中では怖いとは思わなかった。逆に「もっと打たなければ!今度は右を当てなければ!」、と思った。オイラはワンツーで突っ込んだ。