下町のオタク
昨日鑑賞した『下町の太陽』 だが、いろいろ考えさせられる作品だった。
有名作なのでストーリーは割愛。しかしこの映画を観ていろいろ考えてしまった。共産党あたりが喜びそうな、貧乏人讃歌なのか。それとも工員か、ホワイトカラーを目指すのか?
@ サラリーマンを目指せ
他の映画ブログを見て回ると、これは東宝サラリーマン映画を否定した作品ではないか、という記述を見かけた。高度成長の時代のこの頃。働く若者を描いた作品は多い。
たいてい主人公は工場街で働く若者。貧乏だが仲間たちに囲まれて楽しくやっている。登場人物の一人は大会社のサラリーマンを夢見て勉強するが挫折してしまう。はたまた独立してのし上がる事を夢見るが、世の中甘くなくて挫折。主人公や周囲の人に励まされて、また工場で働く事を決意する。こんなストーリーが多かった。
サラリーマンなんて止めておけ。工員が気楽で良いゾ。貧乏でも仲間がいて楽しけりゃそれで良いじゃん。分相応がイチバンだ。この手の話はそう言っているような気がする。この手の作品は工員である事を賛美していた。どちらが良いのかは言えない。だけど真面目に先の事を考えたらサラリーマン。それも大会社のホワイトカラーを目指すもんだ。
いつまでも零細企業にしがみついていたら先細りだ。『キューポラのある街』 の東野英治郎。『いつでも夢を』 の浜田光夫ではないが、「事故や怪我は自分持ち。景気が悪くなればサッサと首切り」
。それが嫌なら大会社のホワイトカラー。工員でも大企業の工場勤務だ。零細よりも給料は良いだろう。組合もあって福利厚生もしっかりしているはずだからだ。派遣はダメだよ派遣は(笑)
。『美しい十代』 ではチンピラヤクザの山内賢に西尾三枝子が言う。「一緒に工場で働こう」 西尾三枝子の働く工場は大きな会社だった。今なら期間工でクビ切られるトコだが、高度成長の時代は大会社の工員は安定した職業の一つだったのだろう。
今の日本人はみんな偉くなってしまった。昔は多くの若者は中学出て工場や商店で働いていた。『キューポラもある街』 の東野英治郎の台詞ではないが、「ダボハゼの子はダボハゼ」 だった。今は高校、大学進学が当たり前。他に夢があるのなら別だが、まともな奴はガテン系の職業には就かない。かかる責任は大きくなるだろうが、将来を考えたら当たり前の事だ。何も考えずに言われた事だけやっていれば良い工員は気楽なだけで何もない。
それに大きな会社で働くのはステータスだ。東宝サラリーマン映画はこの辺を賛美していたとも言える。 ネクタイ締めて、近代的なオフィスで仕事して、上司にくっ付いて銀座のバーやお座敷で接待。淡路恵子や新珠美千代みたなマダムや芸者さんと絡んだり、浜美枝や星由里子みたいなキレイなOLとアフター5。若大将的な生活を夢見ちゃうよ。今どきそんな事している会社があるのか知らないが、汗にまみれて働くよりもこっちの方がカッコイイ。
日活『いつでも夢を』 で工員からサラリーマンを夢見て努力する浜田光夫へ小百合サマの台詞でこんなのがあった。
「背広着てネクタイ締めてインターホンのある机で事務を執る。そして幹部社員として腕を磨く」 サラリーマンも工員も零細はダメだよ。勤めるのなら大会社だ!!
Aサラリーマンの妻がそれほど良いのか?
今回の『下町の太陽』 では早川保がホワイトカラーを目指す。他の映画なら頓挫して倍賞と工場で生きていく、となるのだが、待田が失脚したために早川が繰上げ合格。工場街を抜け出す事になる。しかし倍賞は早川のプロポーズを受けない。試験に落ちた時の早川の態度に失望。結婚して専業主婦になった同僚を見て、ホワイトカラーがそれほど魅力的に映らなくなっていたからだろう。貧乏で不器用でも、正直な工員の勝呂の方に魅力を感じていたからかもしれない。
倍賞の母親は病気で亡くなったらしい。貧乏暮しで苦労して死んだ。それでも死に際に藤原釜足へ「ありがとう」 と言ったそうだ。その話を聞いて倍賞は涙を見せる。この時は早川と上手く行っていた頃だった(と思う) から、苦労した母親の二の舞は嫌だ、と思ったのか。
それとも貧乏でも好きな人と一緒になって良かった、と思ったのか。もう一度観て検証したいトコだが、もう記憶もおぼろげになったしまったので、よー分からん。
現実の結婚なら、相手が安定した職業に就いている事が条件の一つとなるだろう。友人の結婚式に出た帰り。友達の一人が「女の幸せは一緒になる男次第。やっぱりサラリーマンよ」 と言う。安定を目指すなら早川と一緒になるべきだったかもしれない。しかし倍賞の演じた町子は下町の子。専業主婦は似合わない。貧乏でも何でも額に汗して働くのが似合いそうだ。そうなるとやっぱり工員なのかな。
B結局どちらが良いのか?
倍賞演じた町子に関しては、早川と結婚しないで正解だったろう。前述したとおり、貧乏でも何でも額に汗して働くのが似あう人だからだ。 しかしこの映画はサラリーマン&団地族など、家族の形態が変化していく時代の、女性の生き方を示唆する記念碑的な作品かもしれない。
倍賞の家は長屋暮らし。親や兄弟と一緒である。隣近所の爺さん婆さんとも親しい。今はもう存在しない生活環境だ。結婚した友人は光ヶ丘団地で専業主婦。 Wikipediaで調べたら、高度経済成長の時代は、女は結婚したら家庭に入るのが一般的だったらしい。しかしこの映画の倍賞を観ていると、とても専業主婦になるとは思えない。早川と別れて正解だったのだ。団地族の専業主婦など似合わない。汗にまみれて働いて、長屋の連中とうまくやっているのが似合っている。この人は下町の太陽なのだから。
C一言
そういやこの映画は完成したときに試写で上層部から文句は出なかったのだろうか? オープニングは倍賞の歌う主題歌ではないのだ。曲はたしかに『下町の太陽』 なのだが、歌ではなく伴奏。それも何だか陰気で暗い曲にアレンジされていた。普通なら最初は倍賞千恵子に歌わせて景気良く行くべきところだろう。観客もそれを期待したと思う。
肝心の主題歌は冒頭の早川とのデート帰りに、荒川土手を歩く倍賞に歌わせていた。劇中に倍賞に歌わせれば、あとは好きな事をやらせてもらえたのかな? それにしてもスカされた気分。オイラが松竹の重役なら山田監督に一言文句を言うだろう。
まぁでも面白かった。この映画の倍賞千恵子は“さくら” よりも魅力的だった。しかし主演女優としての華やかさに欠ける、かなとは思った。一般社会では充分に美人なのだが、映画女優としては特別キレイとは思えない。でも現実にはこんな人はいないよ。いそうでいない、この微妙なところが、この人がスターたる所以なのかもしれない。
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