第23話 スパーリング野郎

 

 

 3月19日月曜日。夜6時にジムに行った。更衣室で中屋と一緒になった。既に練習を終えたらしい。25日、今度の日曜日は試合である。スパーは土曜で終了。今週は練習量を控えめにして疲労を取り、試合のためのコンディション作りに当てる。減量の必要があるなら食事量を制限しなければならないが、中屋は練習後の体重がフェザー級(57.15Kg以下)だから、その必要がない。今日の練習はシャドー3R。佐々田のミット2R。サンドバッグ2R、縄跳び2Rやって体操して上がった。渡部ジムでの出稽古を尋ねると結構やられたらしい。4回戦やプロテスト前の練習生とやったのだが、こちらのパンチが殆んど当たらなかった。ボクシングの才能がない事を思い知らされたそうだ。顎の辺りに傷があった。右アッパー食らったらしい。ヘッドギアをしていたのに切れたというから恐ろしい。
 中屋は蹴りに関しては5回戦でも通用するテクニックを持っていると思う。ローキックのタイミングは良いし、ミドルキックのフォームはタイ人のようだ。しかし伝統空手の癖なのか? パンチは単発気味。無理に連打をしても回転が遅く、切れも今ひとつ。あまり感の良い方ではないのだろう。相手のパンチに対する反応が悪いから打ち合いが苦手。デビュー戦でのダウンもパンチによるもの。この辺も中屋本人は良く分かっているのだろう。パンチの上手い選手にコンプレックスがあるようだった。もう試合まで1週間もない。今さらこの弱点を修正する時間は無い。オイラなら自信喪失して諦めてしまうところだが、中屋の度胸は据わっていた。「多少はパンチに慣れてきたと思うので、何とかなりますよ。」 中屋の最大の武器はこの度胸の良さ、だと思う。ピンチになっても最後まで諦めない。見習わないといけない、そう思った。
 中屋は着替えを済ませると、宮田や佐々田に挨拶して帰って行った。入れ違うように三沢と木村がジムに現れた。二人は練習前に体重測定。佐々田から今日の練習について指示を受けている。体操を終えたオイラはリングで動き出した。今日はあまり人がいなかった。しかし怖い男が一人いた。垣原である。アマチュア大会で優勝できなかったのが相当口惜しかったのだろう。大会後、ずっとジムを休んでいた。戻ってきたのは3月に入ってからだ。休んでいた間、何をしていたのかは知らないが、少し太っていたから何もやっていなかったと思う。垣原はジムの隅で縄跳びを飛んでいたのだが、終わるとリングに入ってきた。オイラは垣原が怖かった。同じ空間にいるだけで心臓がバクバク言っている。気の弱いオイラはこういう威圧感のある男が苦手だった。オイラを虐めていた連中を思い出させた。いじめられっ子の本能が、垣原は危険な男と教えている。いつもジムワークで一緒になると避けるようにしていた。こいつには近寄らない方が良い。ラウンド終了のゴングが鳴ると、オイラはリングを降りようとした。「スパーするぞ。」 宮田の声が響いた。誰に言っているのだろう?  オイラに言っていた。誰と? まさか・・・垣原と?
 今まで垣原とスパーをした事がなかった。実力も違うし、何より体重が違う。垣原の体重は67〜69キロくらい? しかし最近のオイラは体重が徐々に上がり始めていた。練習はしているから太ってきたのではない。デカクなっているのだ。1ヶ月前の大会では計量時59.5キロだったが、今は練習前で64〜65キロあった。この程度の体重差ならスパーすることも珍しくはないが、オイラの実力では垣原に敵うわけがない。何よりオイラは怯えているのだ。既に気持ちで負けている。垣原は残忍な男だから、格下相手とのスパーリングでも容赦しない。彼にやられて辞めて行った会員を3人知っている。断りたかったが、嫌だと言う度胸もない。日曜の試合に出る中屋を思い出した。突然試合が決まっても動揺する事もない。出稽古でやられても、「何とかなる。」と度胸の良さを見せていた。そうだ、中屋を見習わなければいけない。オイラだってずっと練習を続けている。敵わないまでもある程度は食い下がれるのではないか? 完全にオイラを舐めきっている垣原の鼻をあかしてやりたいと思った。準備を始める。マウスピースを口に入れ、へッドギアを自分で付ける。大会賞品で貰ったグローブを近くにいたジム生にはめて貰いリングに入る。垣原も準備を終えてリングに入ってきた。「2つやるから。」 宮田がオイラのいるコーナーに付いてくれた。「ガードをしっかりな。」
 ゴングが鳴った。垣原のパンチは強い。先日の大会でも強打を見せつけていた。スパーリングでもダウン寸前に追い込まれたジム生を見た事がある。とにかくガードだけは注意しなければ。まともに食ったらタダでは済まない。お互いにグローブを合わせて戦闘開始。気の強い男だからガンガン打ってくるかと思ったら、垣原は静観していた。余裕なのだろう。「お前のパンチなんか当たらねえよ。」 とでも言いたげだった。オイラは定石通り、左ジャブから入る。最近はジャブの打ち方も自分なりに工夫するようになった。テレビのボクシング中継やプロ選手たちの動きを真似ただけなのだが、肩の力を抜いて上体を柔らかく使えるようになった。脱力した状態から打つとパンチにスピードが乗る。ジャブを3連打して出方を見る。最近はジャブを連続して打てるようになった。ステップを踏みながら打つとリズムが取れた。リズムが取れると気持ちや動きに余裕が生まれる。相手の動きも読みやすくなる。今度は肩でフェイントをかけながらワンツー。その時だった。オイラの右ストレートに合わせて左フックから右ストレートを飛ばして来た。左も右も一撃必殺の迫力のあるパンチだった。振りが大きいため最初の左フックは右手でブロック出来たが、その後飛んできた右ストレートはガードが間に合わない。オイラの顔面に正面から飛んでくるのが見えた。とっさに顔を左側にずらしてかわす。相手のパンチをかわして避けたのはこれが初めてだった。今まではグローブでブロックするか、バックステップしてかわすことしか出来なかった。垣原のパンチがオイラの顔スレスレをもの凄いスピードで飛んでいくのを感じた。ゾクッとした。垣原のパンチが見える。驚いた。オイラは・・・強くなっているのか? 確実に実力が付いている。
 今まで甘く見ていたオイラに自分のパンチをかわされて垣原の表情が変わった。人一倍プライドの高い男だから格下のオイラにかわされた、これだけでもう許せない事なのだろう。垣原はムキになって打ち込んでくる。ワンツーから左ボディ、更に左フックを顔面に返してくる。今までのオイラならブロックするのが精一杯だったが今日は違った。最後の左フックに合わせて左のジャブを垣原の顔面に打ち込む。打ちながら左にサイドステップして回りこむ。「三沢みたいだ・・・」 チラッと思った。正月の試合で三沢が見せた動きだ。「おー、今日は調子が良いなぁ。」 宮田の声が響く。柿原の動きに合わせて左ジャブを3連打。全て当たった。短気な垣原はガンガン打ち込んでくる。しかしどれも大振りなので避ける事が出来た。打ってこようとする出鼻を左ジャブでくじく。驚いた。左が当たっているとこんなにも相手が良く見えるのか。恐れていた垣原のパンチが見える、見える。1ラウンド終了のゴングが鳴った。宮田の待つコーナーに戻る。垣原は佐々田の所に行く。着替えて体操をしている三沢や木村がこちらを見ている。左一本で垣原をあしらっているオイラに驚いているのだろう。

 垣原相手に分の良いスパーをしているとはいえ、まだもう1ラウンドある。安心は出来ない。佐々田から何かアドバイスをもらっているようだ。次はどう出てくるのか? 宮田は「今の調子で良い。左だけで終わるな。右を当てるタイミングを掴め。次のラウンドは左だけで終わらずに右まで当てよう。」 タイマーを見るとあと数秒で2ラウンド目が始まる。屈伸をしながら体力の確認。垣原のパンチをもらっていないのでダメージはない。自分のペースで動けたのでスタミナも大丈夫だ。

2ラウンド開始のゴングが鳴った。垣原は左右のパンチをオイラのボディに集中してきた。自分のパンチがオイラの顔面に当たらないので、ボディを打ってオイラの動きを止めようというものだろう。おそらく佐々田の指示に違いない。バックステップしてかわす。数発かわしたのだが、それだけではダメだ。しかし垣原のボディには一撃必殺の迫力があった。恐ろしい。「ジャブ!ジャブ!」 宮田の声が飛ぶ。そうだ、左を突くんだ。1ラウンド同様に垣原の動きに合わせて左ジャブを突きながら左に回る。かまわず柿原は前に出てくる。しかし左が当たっていると垣原の動きが見えた。ボディにパンチを打とうとするので少し前傾気味になっている。オイラは思い切って垣原の左ボディに右のアッパーを合わせた。右肩が前に出るように打てば、仮に垣原のパンチが当たってもオイラの背中に当たるだけだからダメージは少ない。オイラのパンチが先に当たっていれば、垣原のパンチ力は軽減されるはずだ。垣原の左手はオイラのボディを打とうとしているから顎の左側は空いている。そのがら空きの顎に向ってオイラは右アッパーを突き上げた。相手にアッパーを打ったのはこれが初めてだった。シャドウボクシングではやるものの、スパーで使う度胸がなかった。相手に打つにはストレート系のパンチよりも距離が短くなってしまう。自分の顔もがら空きになる。カウンターを貰ってしまうようで怖かったのだ。オイラのアッパーは垣原の顎に直撃! 顎が一瞬跳ね上がる。そこへ返しの左フック! 更に右ストレートを叩き込む。パンチ力の無いオイラでは倒すまでには至らない。深追いしないでバックステップして距離を取った。普通なら一気にラッシュして勝負に出るところだが、深追いはしない方が良い。そう思った。上手く説明できないが、オイラの勘みたいなものが教えてくれたのだ。動物の世界では力の弱い小動物ほど危険を察知する能力が高い。臆病者にはそれと似たセンサーのようなものがあるのだ。普通の文化生活をしているとそのセンサーは退化してしまうが、毎日リングの中で緊張した時間を過ごしていると多少はその能力が蘇ってくるのだろう。日常生活でもそんな力があれば、オイラも三沢のようになれたかもしれない(笑)。オイラのセンサーはいつも働くわけではない。しかしこの日は正確に動いてくれた。気の強い垣原はすぐにワンツーを打ち返してきたのだ。前に出ていたらカウンターで貰ってしまったところだが、距離を取っていたので楽にかわす事が出来た。垣原の打ち終わりに右ストレートを打ち込んだところで終了のゴングが鳴った。オイラは垣原のパンチを殆んど貰っていない。その証拠に鼻血が出ていない。右手のグローブを外しながら宮田が「今日はどうしたんだ。調子が良いじゃないか。」 左のグローブを木村が外してくれた。「俺の代わりに試合してくれよ。」 声をかけてくれた。三沢が「キレイにヒットアンドウェイしていたね。俺も試合でやりたいな。」 人に誉められた事の無いオイラに三沢のようなスター選手が声をかけてくれた。照れくさかった。
 グローブを外してもらったオイラは垣原のところへ挨拶に行った。何か怖いことでも言われるかと覚悟したが、フンッ! という感じで無視された。佐々田が「ちゃんと挨拶しろ!」 怒鳴った。別にオイラは挨拶なんてされなくて構わない。垣原とは関わたくなかったからだ。垣原はオイラに軽く頭を下げるとサッサとリングを降りてしまった。人と会話するのは苦手だ。スパーで少しばかり良い所を見せたからって有頂天になってはいけない。垣原を見て、そう思った。下手に喋れば天狗になっていると思われはしないか? 不安になった。オイラはグローブとヘッドギアを片付けると、とにかく自分の練習に集中するように努めた。それでも垣原相手に分の良いスパーをしたということで、オイラは興奮していた。その気持ちを悟られないように、サンドバッグを叩いた。ジムの中にいると自分の心の中を周囲に知られてしまうような気がした。オイラはサンドバッグを早々に切り上げ、外へ走りに行った。