第29話 スパー大会

 

4月に入ってオイラは高校三年生になった。進学か就職か、決めなくてはならない。勉強の出来ないオイラでは大学は無理だろう。就職と言っても特にやりたい仕事も無い。社会性もない。高校時代のバイト経験といえば、夏休みと春休みにやった工場の軽作業員しかない。ラインに入って時間まで言われた事だけしていれば良い。人と係わらずに済むから気が楽といえば楽なのだが、こういうトコでバイトしている連中は向上心のない、人生の敗北者のような奴が多かった。まともな奴なら学校を出るなり資格を取るなりして、ここから脱出することを考えるものだ。努力もしないでぬるま湯の生活に満足している連中を見て「将来はこうなってしまうのかな。」 この頃のオイラはどこか他人事で、薄汚れた作業服を着ての作業を淡々とこなしていた。
 ジム生には学生もいれば当然社会人もいる。多くは昼間仕事をして夜ジムにやって来る。毎日練習するには残業はなるべく少ない所が理想だ。もっと言わせて貰えば、毎日決まった時間に終わるところが良い。しかしこのご時世、そうそう美味い仕事はあるわけもない。
 ジムの開いているのは夜10時まで。着替えやシャワーの時間を含めて2時間必要とした場合、遅くても8時にはジムに入りたい。職場や住まいが近ければ良いが、遠いと通うのも大変だ。最近は遅くまで開いている格闘技のジムは多くなったが、この当時はまだ少なかった。せいぜい9時まで。中には8時で終わりなんてトコもあった。10時まで開いているのは珍しい方。遅くまでやっているから、という理由で大崎ジムを選んだ者は多かった。
 昼間仕事をして疲れた体に鞭打って、夜はハードな練習をする人たちはエライと思う。普通なら仕事が終わったら、もう練習なんてする気が起きなくなるだろう。体力作り会員ならサボっても構わないが、プロ選手としてやっている人はそうは行かない。毎日練習しなくては強くなれないし試合も組まれない。試合が決まれば減量、試合を控えての緊張感とも戦わなくてはならない。それらを仕事しながらやらなくてはならないのだ。プロといってもマイナースポーツのキックボクシングではそれだけで生活は出来ない。仕事との両立が絶対必要となる。それが出来なければ続けて行く事は出来ない。才能があっても生活に負けて辞めていった者は多い。
 社会人で続けている人たちは、皆当たり前のようにやっている。別にプロ選手を目指しているわけではないが、来年からオイラにも出来るだろうか? 進路も決まっていないのに、キック中心の生活を考えているオイラはまだ子供だった。
 学校では親と担任教師との3者面談が始まった。最近ではキックばかりやっているオイラを心配したのか、親もあれこれ言うようになった。オイラは漠然と就職を考えていた。職種は何でも構わない。とにかくキックが続けられる所。だからなるべく残業の少ない決まった時間に終わる所が良かった。そんな甘い考えでいたのだが、意外にも担任教師は進学を勧めてきた。オイラの成績で行ける大学があるとは思えないのだが、教師の話はこうだった。神奈川県厚木市に3年前に開校したTという大学がある。出来たばかりなのでまだそれほどレベルが高くない。オイラの成績でも勉強すれば入れる可能性があるらしい。オイラは勉強は出来ないが非行歴はない。無遅刻無欠席で問題を起こしたこともない。これらは単に臆病でサボる度胸がなかっただけなのだが、書類上素行は悪くないので、受けるのなら学校が推薦してくれるらしい。
 渡りに船だと思った。漠然と就職を考えていたが自分に社会性がないのは百も承知。組織に入って上手くやっていける自信もなかった。キックを続けるのなら働くよりも学生でいた方が良い。大学に通えば少なくとも4年はキックが続けられる。このTという大学の事は知らない。大学に行ってもやりたいこともないから、どこの学部に行けば良いのかも分からない。しかし学生でいればキックは続けやすい。教師は考えるように言った。親もオイラの行く末を心配してくれたのだろう。大学は出ておけと言ってくれた。翌日、オイラは進学希望を教師に伝えた。これは勉強しないとマズイな。

 ジムに行くと宮田からスパー大会の話をされた。次回のグローブ空手の大会だが4月29日土曜日の“みどりの日”(現在は“昭和の日”) に決まったらしい。前回のフレッシュマンクラスで準優勝したオイラはもう同じクラスには出られない。エキスパートクラスと呼ばれる上級者のクラスになる。ところが今度の大会ではエキスパートクラスのトーナメント戦はないらしい。代わりにワンマッチのスパー大会が行われるらしい。場所も新宿スポーツセンターではなく、江東区扇橋の日拳会館。キック連合のボス・馬場会長のジムだ。プロ試合の計量会場にも使われる大手のジムだ。ここのリングで行われるらしい。あとで佐々田に聞いたのだが、キック連合もプロテストを導入する予定で、そのリハーサルを兼ねて行われるらしい。オイラはプロ希望ではないが、「ヘッドギア着用で2分3ラウンド、1試合だけだから軽い気持ちでやってみないか。」 宮田に勧められた。スパー大会とはいえ勝敗は決めるらしい。対戦相手は決まっていないが、おそらくはプロ希望の練習生だろう。エキスパートクラスの代わりにやるのだから、出てくるのはそこそこの実力者に違いない。正直怖い。勉強を口実に断ってしまおうかと思った。さっきまでキック中心の生活を考えていたくせに、試合と聞くと血の気が引いていく。オイラはどこまで臆病なんだ。宮田はオイラの気の弱さを知っている。オイラが混乱している事を見抜いたのだろう。「考えておくように。」 少し時間をくれた。情けない。そんな自分が許せなかった。オイラは「やります。」 弱い自分に罰を与える。そういう心境だった。

 大会までもう3週間しかない。とにかく練習だ。しかし勉強もしなければならない。定期試験以外、家で勉強したことのないオイラだが、とにかく机に向うように心がけた。キックばかりやっていると親に叱られてしまう。そうならないように勉強しているフリをした。

スパー大会はライト級(58.9キロ〜61.2キロ) で申し込んだ。正式な試合ではないので、それほど厳密にしないらしい。適当な相手がいなければ一階級くらい違う相手とやるかもしれないが、ライト級は層が厚いから“いない” ということはないだろう。練習だけでなく勉強もしたので毎日があっという間だった。そして大会当日を迎えた。