第10話 勝利と敗北
「両選手、リングに入場でございます!」リングアナの衣笠さんの声が場内に響いた。音楽が鳴る。前座三回戦では普通、音楽はないのだが、この試合は注目が高いためか音楽が付いた。メインイベントやセミファイナルだと赤・青コーナーの選手が別々に入場だが、やはり3回戦、両コーナーの選手は同時に入場してリングに入った。対戦相手・・・パンフレットによると、小橋健太郎、24歳。千葉市中央区内にある千葉中央ジム所属。88年アマチュアキック・ライト級優勝と書かれていた。暴走族のメッカ・千葉県出身だから元暴走族かと思ったら、現れた小橋選手は丸顔で坊主頭、大学の体育会系風の真面目そうな男だった。空手出身なのか?空手着をガウン代わりに羽織り入場。赤コーナーに近い、北側の客席には小橋の友人らしき3〜4人の男たちが声援を送っていた。対する三沢の入場は華麗だった。先頭は佐々田、真ん中に三沢、その後ろを宮田、最後尾をジムの最古参・33歳のプロ選手・木村を従えて登場。三沢は背中に龍の刺繍の入った白いサテン地のガウンを着て入場。三沢の姿が現れた途端、南側や西側に陣取っていた三沢の応援団から嵐のような声援が飛ぶ。三沢の歩く姿は絵になった。映画のワンシーンのようだ。持って生まれたスター性ってやつなのか。相手が並みの選手なら、これだけで呑まれてしまうだろう。リングに入った選手に衣笠さんが激励賞を手渡す。小橋のは2つの祝儀袋だが、三沢のは分厚い束になっている。衣笠さんが名調子で選手の紹介をしたのだが、三沢の名前をコールした途端、応援団からは大量の紙テープが飛び、クラッカーが鳴った。何もかも3回戦離れしていた。これでは小橋は三沢の引き立て役だ。レフェリーが両選手を中央に集めて、簡単に試合の注意をする。コーナーに分かれてゴングが鳴るのを待つ。レフェリーはリングサイドに座っている2人のジャッジに確認合図をした後、タイムキーパーに試合開始の合図を送る。タイムキーパーはそれを受けてから試合開始のゴングを鳴らす。
試合が始まった。三沢と小橋はグローブをちょこんと合わせる。両者とも左足が前のオーソドックス(右利き)スタイル。どの試合もそうだが、ファーストコンタクトは試合展開を占う重要なシーンだ。両者ともオーソドックスなので、最初はお互い左ジャブとローキックで様子見かと思ったが、小橋の攻撃は強引だった。左ミドルキックからワンツー、左ミドルキックからワンツー、この繰り返し。愚直なまでのワンパターンなのだが、これが有効だった。三沢が最初の左ミドルをヒジでブロック、その後飛んできたワンツーをグローブで受ける。グローブが顔面を守るとボディが空く。そこへまた左ミドル、ヒジでミドルをブロックすると顔面が空く。そこへワンツーパンチ。間断なく打ってくるので、体勢を立て直す余裕がない。三沢の反応が良いのでクリーンヒットは許さないが、少しでもバックステップして小橋の攻撃を避けようとすると、グイグイ前に出てくる。これでは嫌でも相手は守勢に回ってしまう。小橋は表情を変えずに攻撃してくる。いやこれが小橋の怒りの表情なのかもしれない。自分とはあまりに違う華麗な三沢の姿に嫉妬しているのか?「良いカッコしやがって!ナメんなよ!」そう思っていたのかもしれない。正直に告白するが、この時オイラは心の中で小橋の応援をしていた。カッコ良い三沢にオイラも嫉妬していたのだ。積極的に攻め込む小橋に自分の姿を重ねていたのである。もちろん小橋のような芸当はチキンのオイラには出来ない。左ミドルからワンツー、というコンビネーションも特に珍しいパターンではない。それでも彼がこのコンビをマスターするのに、おそらく相当な修練を積んできたはずだ。体つきを見れば一目瞭然。わき腹に脂肪が少しもなく、腹筋もキレイに割れている。後背筋も盛り上がっている。特にふくろはぎの筋肉がコブになっていた。サンドバッグやキックミットを毎日何ラウンド、何十ラウンドも蹴りこんでこなければ、あれほどまでに発達はしない。ワンパターンな攻撃をするところから見て、元々はあまりカンの良い方ではなかったのだろう。才能よりも努力の人だと思う。 しかし三沢の才能は小橋の努力を凌駕した。2分を過ぎる頃から小橋の攻撃を見切りだしたのだ。小橋の左ミドルを三沢は右ひざを上げてブロック、右ひざを下ろしながら右ストレートを小橋の顔面に叩き込んだ。不自然な体勢から打ったパンチなので、クリーンヒットしてもKOするだけの破壊力はないのだが、小橋も左ミドルの体勢で食ったのでバランスが崩れた。しかしすぐに立て直してまた左ミドル、今度はそれに右ローキックを合わせて見せた。三沢のローキックは、小橋の軸足を払うように蹴ったので、小橋は尻餅をついた。左ミドルが読まれている事を悟った小橋は立ち上がると、左の前蹴りを三沢のボディに蹴りこんできた。この前蹴りは通常のものとは異なり、左ミドルと同じフォームから入り、蹴り足が上がったところで前蹴りに変化させて蹴って来るものだった。回し蹴りと同じ軌道で飛んでくるので、相手は左ミドルかと錯覚してしまう。しかしこれも三沢には通用しなかった。三沢は冷静にこれを見切り、左手で蹴り足をすくう様にキャッチ、小橋の軸足に右のローキックを叩き込んだ。小橋の右の内腿は既に真っ赤になっている。ここで1ラウンド終了のゴングが鳴った。1ラウンドと2ラウンドの間のインターバルで、両選手の戦績と経歴の簡単な紹介がされる。衣笠さんのアナウンスが場内に流れるのだが、小橋の時はアマチュア大会優勝と紹介していたが、旗色の悪くなっている時に言われるのはあまり良い気持ちではないだろう。しかしコーナーに戻り椅子に座っている小橋の表情を見る限り、まだ諦めてはいないようだ。目には強い光が宿っている。三沢の方は落ち着いたものだった。戻って来た三沢に木村が素早く椅子を出し、用意した水を佐々田に手渡す。うがいをした三沢は佐々田の指示に時折、笑顔を浮かべて頷いている。何と言っているのだろうか?宮田はロープの間から上半身を出して、三沢の顔の汗を拭きワセリンを眉の部分に付けていた。F1のメカニックチームのようにセコンドの連携が取れている。
2ラウンドが始まった。1ラウンドは受けからの反撃に終始した三沢が攻撃に出てきた。左ジャブ3連打から右ローキック。更に小橋のお株を奪うように左ミドルを3連打してみせたのだ。小橋は右ローまでは何とかブロックして見せたものの、バランスが崩れだしていたため、連打で来た3発目の左ミドルをボディに貰ってしまった。三沢の攻撃はここで止まらなかった。更に半歩踏み込んで左のテンカオ(膝蹴り)を小橋のわき腹に叩き込んだのだ。たまらず小橋はダウン、会場が沸く。レフェリーがカウントを取る。「負けて、負けてたまるかよぉ!」小橋の表情はそう言っているようだった。苦痛に顔を歪めながらもカウント6で立ち上がった。レフェリーが8まで数えたときにグローブを上げて構えて見せた。試合が続行された。小橋が根性を見せた。大振りながら左右のパンチを繰り出して前に出てきたのだ。しかし1ラウンドに貰った三沢のローキックが効き始めたのか、踏み込みが甘い。三沢は国際式ボクサーばりのサイドステップで小橋のパンチをかわしながら、左へ回る。小橋の右のパンチが空振り、体が流れたところに三沢の強烈な右のミドルキックがボディに、うずくまる小橋。もうダメだ。これは立てないだろう。オイラだけではなく、会場の全員がそう思ったはずだ。しかし小橋は立ち上がった。立ち上がっても、もう逆転は無理だ。悔しいが、三沢と小橋の間にはとても埋められない実力差がある。そんな事は小橋本人も分かっているはずだ。それでも立つ。立たなきゃ、これで終わってしまう。試合が終わるだけではない。小橋にとっての何かが終わってしまうのだ。だから・・・だから立つ。もうこれは理屈ではないのだ。とにかく立つ。立ち上がっても、惨めに倒されるだけなのだが・・・でもとにかく立つのだ。立ち上がった小橋に会場から拍手が沸いた。小橋陣営はどうするのか?タオルを投入してもおかしくない展開だ。タオル投入はなかった。小橋もまだやる気だ。ファイティングポーズをとる。レフェリーは一瞬迷ったようだったが、続行を指示した。
キックボクシングは国際式ボクシングに比べてストップが遅い。団体が乱立しているためかレフェリングの技術が低く、ジムや団体関係者の多くが空手出身者のためか、どこか武道的な考えが支配しているからだろう。ボクシングは日本国内の試合だけでも、年に数件の再起不能、または死亡事故が起こる。特に近年は若者の基礎体力が低下しているため、事故の起こる可能性は高い。従ってJBC(日本ボクシングコミッション)ルールでは4回戦は2ノックダウン制。1ラウンドで2回ダウンしたら、自動的にKO負けである。1回のダウンでもレフェリーの判断でストップになる事もある。プロテスト受験の際は、指定病院でのCT検査や視力検査にパスしなければならない。それだけ気を使っていても事故は起こる。にもかかわらず、キックでは検査もないし、3回戦でも3ノックダウンだ。途中でストップになる事は滅多に無い。大抵は3回ダウンするまでやらせる。キックの試合が行われるようになって40年経つが、現在まで死亡事故は1件だけ。そのせいかキック関係者の認識は甘い。事故が増えない限り、この傾向は変わることは無いだろう。
2ラウンド、残り時間はまだ1分ある。あともう一度ダウンを取れば試合は終わる。三沢は仕留めに掛かった。ワンツーから左ボディブローがわき腹にヒット。体が“く”の字になりそうなのをこらえて小橋が打ち返す。三沢はサイドに回りながら上半身を柔らかく動かしてパンチをかわす。小橋の右サイドに回った三沢の右足がひょいと上がった。スピードも切れも充分、体重の乗った破壊力抜群のハイキックが小橋の顔面に飛んで行った。怖いのは三沢の右手は蹴りながら、小橋の右グローブを抑えていたことだった。これでは小橋は左のグローブでしか顔を守ることは出来ない。しかも右手が制されていたため、左手の反応が遅れた。バチン!という嫌な音がここまで聞こえて来た。小橋の意識が飛んだ。糸の切れた人形のようにドタン!と大の字にぶっ倒れた。試合終了、鮮やかなKO勝ちだった。場内が沸く。レフェリーが三沢の右手を高々と上げる。嵐のような拍手が三沢に降り注いだ。三沢もその声援に答えて左手を挙げてガッツポーズだ。
右のハイキックを出しながら、相手のグローブを自分の手で抑えてしまう。恐るべきバランス感。最初と2度目のダウンはボディでのもの。最後のハイキックを決める直前のパンチもワンツーから左ボディ。小橋の注意をボディに持って行き、フィニッシュは顔面への蹴り。緻密な試合の組み立て、非凡な格闘センスはとても3回戦のものではない。オイラは勝った三沢よりも負けた小橋が気になった。派手な倒れ方をしたけど大丈夫なのか?あわてて小橋のセコンドやリングドクターが駆け寄り、介抱している。どうなっているのか見えない。ホールの係員が担架をリングに運び込もうとしている。ヤバイのだろうか?しかし小橋は意識を取り戻したようだった。セコンドに支えられ立ち上がると、周囲に軽く会釈をしている。良かった、無事のようだ。セコンドの肩を借りて、花道を引き上げていった。その背中に観客の拍手が・・・たとえ負けても、意地を見せた選手にはお客さんは優しい。しかし負けてしまった。きっと悔しくて仕方が無いはずだ。今日の夜を小橋はどうやって過ごすのだろうか?
オイラの隣で観戦していた中屋は三沢の豪快なKOに興奮していた。「自分もああやって勝ちたい・・・一緒に控え室に行こう。」と中屋に誘われた。青コーナー側廊下の奥の鉄扉を開けて階段を降りると、選手や役員の控え室がある。入り口に“青コーナー選手”、と書かれた部屋に入ると、三沢は数人の記者のインタビューを受けていた。横で宮田と佐々田が三沢のグローブを外している。とても話しかけられる雰囲気ではないので、中屋と廊下に出た。そこへ小橋がセコンドに付き添われて、赤コーナーに続く階段横の医務室に入っていった。派手に倒されたからドクターチェックを受けるようだ。オイラたちの横を通った小橋は痛々しかった。口の周りが紫色に腫れ上がっていた。最後のハイキックは強烈だったから、前歯が折れているかもしれない。顎や鼻は大丈夫なのか?両足も腫れている。体の所々、赤くなっている。試合の凄まじさを物語っていた。勝った三沢は客の声援を受けて、記者たちのインタビューを受ける。負けた小橋には誰も来ない。受けたダメージも決して軽くはない。当分は試合も練習も出来ないだろう。日常生活も苦労しそうだ。歯が折れているとしたら食事も不自由するだろう。何より負けたことによる精神的なダメージが心配だ。折れた歯を意識する度に、三沢に負けた事を思い知らされる。厳しい世界だ、そう思わされた夜だった。
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