第18話 戦いの果てに

 

 試合が始まった。オイラは基本通り、両手は顎の高さに挙げて多少アップライト気味に構える。腰上4本ルールなので、ミドルキックを出しやすくするためだ。時間は2分しかない。先に攻撃してペースを掴まなければならない。試合というのはパフォーマンスだと言われる。相手を倒すのではなく、自分の動きを審判にアピールする。巧くアピールできた方に手が上がるのだ。良いところを見せなければならない。それにはとにかく攻撃だ。
 しかし川田の構えは奇妙だった。ドッシリと腰を落として両手は大きなボールを抱えるようにして構えている。これではジャブが出せないではないか。一体こいつは何がしたいのだ?そう思ったらいきなり左右の腕を振り回しながら、飛び込んできた。左右のパンチを当てる動きではない。スゴイ勢いで腕を振り回してきたのだ。これではまるで子供の喧嘩である。それでもドッシリした構えから振り回してくるのだから、一発でも顔面にクリーンヒットしたらダウンしてしまう。パニックを起こしたオイラは前蹴りを川田のボディに叩き込むのだが、焦っていたので腰高だった。そんな姿勢で蹴った蹴りでは川田の勢いは止まらない。懐に入られそうになった。オイラは逃げた。フットワークを使って距離を取ったのではない。怖くて川田に背中を見せるように走って逃げたのだ。そんな見っともない姿に場内から笑い声が起こる。他のジムや道場の関係者や選手。応援に来ている連中が笑っているのだ。「何だよ、あれ。」という声も聞こえた。ニヤニヤしている役員もいた。幸い、場外には出なかったので減点にはならなかったが、オイラがビビっているのは誰の目にも明らかだ、情けない。「落ち着いて!」、「大丈夫!」木村や中屋の声が聞こえた。「落ち着かなければ・・・。」自分で自分に言い聞かせる。「大丈夫・・・大丈夫」マウスピースをしながら、念仏のように呟いた。
 「続行!」主審の指示が飛ぶ。川田を見ると、またも奇妙な構えだった。今度は左の拳を突き出し右腕を天井に上げていた。まるでカンフー映画に出てくるような構えだった。こいつ、ワザとやっているのか?それともまともな構えが出来ないのか?「ジャブからロー!」木村の声がする。そうだ。左ジャブからの右のローキック。これだけは自信がある。腰から上への蹴りはその後で良い。まず左のジャブ、これは牽制なので、無理に当てる必要は無い。そこから微妙に左斜め前に踏み込みながら右のローキックを川田の左足に叩き込む。右を蹴る時、自分の右手は大きく水をかくように振り切る。相手から見た場合、この振り切るような右手の動きが、右のパンチを打ってくるように見えるらしくフェイントになる。左のジャブから繋げてくるので並みの選手には一瞬、ワンツーを打って来る様に見えるのだ。毎日、毎日、サンドバッグを相手にこの動作を飽きるほど続けてきた。おかげでオイラの右足のスネ毛は少し薄くなってきた。佐々田に言わせると、艶が出てきたら一人前らしい。オイラにとって渾身の右ローキックは、おかしな構えの川田の左の太股にクリーンヒットした。フェイントもかけてあるし、何より妙な構えをしているために反応できなかったのだ。一瞬、川田の上体が崩れた。オイラは左のジャブで距離を取り、もう一度右のロー。当たった。更にもう一発。川田はオイラの右ローに慣れてきたのか、左のスネを上げてブロック。オイラは右のローと見せかけて、ハイキックを狙った。しかし右のハイを蹴りなれていないオイラの右足は背の低い川田の顔面には届かず、肩口の辺りに当たっただけ。これはあまりダメージには繋がらなかった。オイラは左ジャブで距離を測り、左のミドルをボディに叩き込む。これは川田の丸太棒のような右腕でブロックされた。構わずもう一発。これもブロックされてしまう。ここまでオイラはミドル以上の蹴りを3発出した。あと一発で4本クリアだ。川田は再びパンチを振り回して突っ込んでくる。ローキックが当たった事で、多少落ち着いてきたオイラは大降りの川田のパンチをスウェイバックしてかわす。試合での三沢の動きをイメージしてサイドステップ。左へ回りながら右のハイキック。クリーンヒットはしなかったが、川田のヘッドギアをかすめた。これで4本だ。更に右のミドルを蹴る。ブロックされてしまうが、とにかく蹴った。リーチに優るオイラは左のジャブを数発、川田のおでこに当たる。川田もパンチを打ってくるが、相変わらず大降りのパンチなので、目の慣れたオイラには当たらなかった。スウェイやダッキングでかわす。そんなことを繰り返していたら、試合終了の太鼓が鳴った。元の位置に戻ると、主審が「判定お願いします。判定!」笛を吹く。2名の副審の旗は赤を揚げている。主審も赤だ。オイラの勝ちだ。一回戦突破だ。初めて、初めて人に勝った。今まで勝負事で人に勝ったことなどなかった。負けるのが怖くて・・・人と争うのが怖くて、賭け事、勝負事などやった事がなかった。そんなオイラが格闘技の試合で勝った。自分の周囲がパァッと明るくなった気がした。礼をして試合場を出ると、木村と中屋が「やった、やった。」と祝福してくれた。
 会場の隅でグローブとヘッドギアを外し、汗を拭っていると「どうもありがとう、勉強になったよ。」声をかけられた。声をかけてきたのは川田だった。紅潮した顔をタオルで拭いながら笑顔で声をかけてくれた。握手をした。オイラよりも一回り大きな手だった。拳固にしたら痛そうだ。こんな人にオイラは勝ったのか。信じられない気がした。しかし自分に勝った相手に笑顔で接してくる川田の、人間としての度量の深さに感動した。普通なら自分を負かした相手のことなど知った事ではないはずだ。休んでいると、同じように試合後にお互いに挨拶を交わしている光景を見た。戦い終わればノーサイドってやつなのか。プロの試合場とは違う清々しさがあった。
 次は2回戦だ。第2試合の勝者と対戦する。今、目の前で行われている試合の勝った方と戦うのだ。どちらも身長は175センチ前後、オイラと同じくらいだ。両選手とも蹴りとパンチを巧みに使いながら激しく打ち合っている。上手い。オイラにあんな動きが出来るだろうか。川田との試合はオイラの方が背が高くリーチもあったので、相手の攻撃をかわすのが楽だった。しかし今度はどちらが相手でもそうは行かない。一回戦突破して、自信のようなものが出てきたオイラだが、たちまち萎縮してしまう自分がいた。結局、白の選手が2−1の僅差で勝利した。今度の相手は鈴木というキックジムの選手だった。
 第2試合場では垣原が登場していた。フルコン空手道場の選手を右のミドルキックからパンチの連打に繋げてKOしてしまった。強い。最初のミドルがあまりに強烈で、一発で相手が正面を向いてしまった。そこへパンチの連打だ。このパンチも一撃必殺の重いものだった。そんなのを連打されたのだから堪らない。試合時間も30秒もかからずに終わってしまった。相手を叩きのめしても垣原は感情をあらわにしなかった。「当然だ。」と言わんばかりの表情だった。太々しい態度は悪役然としていた。
 午後2時過ぎに各階級の一回戦が終了。二回戦が始まる。武藤の出場する重量級は参加人数が8人なので、二回戦終了後からスタートだ。マウスピースを口に入れ、グローブとヘッドギアを付けた。中屋が「ファイト!」と声をかけてくれた。木村は第2試合場で始まる垣原と武藤の所に行っているらしい。名前を呼ばれて試合場に入る。オイラは赤、鈴木は白だ。お互いに礼をして主審の「始めい!!」。2回戦がスタートした。鈴木もオイラと同様にアップライトに構える。初心者クラスとは思えない、隙のない構えからそれなりの実力者という事が分かる。威圧感を感じる。オイラの臆病な性格は、鈴木が危険な相手だと教えてくれた。どうして良いのか分からない。そんな時は、とにかく基本である。オイラは左ジャブからの右ローキックで入った。鈴木はオイラのローキックに反応、左スネでブロックされたが、跳ね返されるような感じは受けなかった。普通、ローキックをスネでガッチリ受けられると、蹴った方にダメージが残るものだ。それがあまり無かったのだ。という事は、鈴木のスネ受けは甘い、ということだ。「あれっ?」隙のない構えをするにしては中途半端なブロックに拍子抜けした。大きく見えた鈴木が、何だか小さく見えた。オイラは右ローの後に、右手を伸ばして鈴木の後頭部を掴んだ。小さく見えたために、目の前の鈴木の頭が掴めるような気がしたのだ。何気なく手を伸ばしたら掴めた。そんな感じだったのだ。そこから左の膝を鈴木のボディに叩きこんだ。鈴木は咄嗟に右の肘で自分の腹を守ろうとしたが、オイラの膝の方が微妙に早かった。一瞬、鈴木の動きが止まる。オイラは両手で鈴木の後頭部をロック、首相撲の体勢から膝蹴りを連打した。
 首相撲はキックボクシングやムエタイでは重要な技の一つである。両手で相手の頭を抱え込み、膝で相手のボディを蹴る。首を固めておけば、相手は反撃をしにくい。振り回されるとスタミナもロスしてしまう。ムエタイでは首を取り合いながらの膝の蹴りあいに観客が沸く。膝をブロックしようとして顔面のガードが甘くなると肘で額を切られてしまう。日本人選手の多くが敗れるのは大抵このパターンである。タイ人は子供の頃からこういう練習や試合を繰り返してきたので、接近戦では日本人選手は敵わない。今日のグローブ空手のルールでは肘打ちは禁止だが、首相撲からの膝蹴りは認められている。大崎ジムではシャドウやサンドバッグを蹴る時、ラスト30秒は肘打ち、膝蹴りの練習をしている。ジムの3分タイマーが残り30秒になると、宮田や佐々田が「ラスト30!!」と激を飛ばす。その声が飛ぶと皆、膝蹴りや肘打ちを繰り返すのだ。
 オイラは膝蹴りを連打した。中屋の「離すな!離すな!」の声が聞こえる。そうだ、この状態になったら、相手が倒れるまで蹴りまくるのだ。鈴木は首を取り返そうと、オイラの両腕の隙間に自分の腕を捻りこんで取り返そうとしてきた。オイラは鈴木の上体を左右に振ってから前に崩す。相手の顔面を下に向かせて、反撃を防ぐ。そして鈴木の顔面へ膝蹴りを狙う。鈴木も普段から首相撲の練習をしているのだろう。簡単には下を向かない。空手道場なら首相撲の練習をしているところは少ないが、鈴木はキックボクシングのジムの所属だ。だとすれば普段から首相撲の練習もやっているのだろう。なかなか上手く行かなかった。首の取り合いで膠着状態が続いたので、主審の「待て!」が入った。中央に戻され、最初からやり直しである。主審の「続行!」の声で再開。今度は鈴木がワンツーから左ミドルを蹴って来た。オイラは右のスネを上げて鈴木のミドルをブロック。右足を下ろしながらワンツー。左へ回りながら右のロー。腰上4本ルールなので、右のミドルに繋げる。接近して来たので、パンチの打ち合いになった。ワンツーから左右のフックを振り回す。何発か鈴木の顔面に当たるが、鈴木のパンチもオイラの顔面を捉える。お互いにクリーンヒットは無いものの、激しい打ち合いとなった。打ち合いながら、「鼻を打たれたらヤバイ。鼻血が出てしまう。」チラッと思った。鼻血が出ると見栄えが悪い。判定にも響くかもしれない。パンチでの打ち合いは避けなければ。離れ際に左フックを打って距離を取った。離れ際の左フックは、スパーリングの時に佐々田から教わった打ち方だ。離れる時は相手も油断している事が多い。そこを狙って打つのだ。オイラの左フックは鈴木のテンプルに当たった。効いたようには見えなかったが、上手く距離を取る事に成功した。と思ったら、鈴木はすかさず左のミドルを蹴って来た。オイラは咄嗟に右のローキックを合わせる。オイラのローは鈴木の軸足を刈る形となった。鈴木が派手に尻餅を付いたところで、試合終了の太鼓が鳴った。判定はオイラの首相撲からの膝蹴りが優勢となったのか、3−0でオイラが勝った。準決勝進出である。3位決定戦はないから、最低でも3位は確定だ。中屋が「良かった、良かった。」と誉めてくれた。
 試合場から出て、グローブを外す。鼻血が出ていないか触って確認した。うっすらと汗と鼻水に赤いものが混じっていた。出血とまでは行っていないが、わずかに鼻血が出たようだ。あのまま無理にパンチで打ち合っていたら、確実に出血していただろう。しかしこの後まだ、準決勝がある。勝てば決勝戦もあるのだ。この先、相手は更に強くなる。あと2試合、大丈夫だろうか?