第13話 東京ナイト

 

 1989年1月28日土曜日、今夜は中屋のデビュー戦だ。佐々田からセコンドの手伝いをするように言われているから、今夜はオイラにとってもセコンド・デビューだ。試合は午後7時から、芝浦のディスコで行われる。遅くても6時には会場入りだから、5時までにジムに来るように言われた。2月11日にはオイラの出場するアマチュア大会があるから、一応練習はしておきたい。土曜日だから学校は昼で終わる。一度家に帰りジーパンに着替えて、バッグに練習道具とセコンドに付く時に着るジャージの上着を入れて、早めにジムに行った。2時半頃にジムに到着。シャドウをしてサンドバッグを蹴る。腕立て、腹筋。スクワット等の補強運動をした。1時間半ほど汗を流し、シャワーを浴びたのが4時を少し回っていた。中屋は、まだ来ていない。表は薄暗くなっていた。オイラは近所の立ち食いそば屋で腹ごしらえをした。今日は長い一日になる。キチンと食べておかないと体が持たないかもしれない。
 中屋がジムに来たのが4時45分。宮田は中屋の顔を見て「夕べは良く眠れたか?」と訊ねた。中屋は「8時間寝ました。」特に緊張する事も無く、グッスリ眠ったらしい。今日の試合には定時制の仲間が数人、応援に来てくれるそうだ。オイラだったら緊張して眠れないかもしれないし、応援に来てくれる友達もいない。羨ましいと思った。今日の試合は後楽園ではないので、ジム生で応援に来る奴も少ないらしい。キックなんてマイナー競技をやる奴は変わり者が多いから、芝浦のディスコなんて場所は敷居が高いのだろう。
 試合場には宮田の経営する鉄工所のライトバンで行く。ライトバンの両サイドのドアには鉄工所の名前が書かれていた。佐々田は車にセコンドの道具を積み込む。宮田が運転、助手席には佐々田。後ろに中屋とオイラが乗るライトバンが出発したのが5時ピッタリであった。土曜の夕方だから、道は混んでいた。都内の道は慢性的に渋滞だが、土曜のせいかトラックなどの商業車よりも、遊びに行くのであろう乗用車が目立った。若い男が助手席に彼女らしい女を乗せている。横浜の方にでも行くのであろうか?羨ましい・・・とは思うが、オイラには縁の無い世界の話だ。クラスでも気の利いた奴は彼女作って、土曜はデートしているなんて噂を聞くことがある。しかしオイラには関係ない。そういう濃密な人間関係は作れないし、今まで女とまともに会話した事がないからだ。思春期だから女は欲しい。でもどうやれば女と知り合えて、そういう関係になれるのか?全くイメージする事が出来なかった。気の弱いオイラには無理な芸当だ。最近は、弱い自分にはそんな事をする資格はない、とまで考えるようになっていた。そんな劣等感を払拭するには、強くなるしかない。それには練習しかないのだ。これを読んで笑う人もいるかもしれないが、この頃のオイラは真面目にそう考えていた。中屋はどうなのだろうか?これからリングに上がろうという中屋は、彼女と遊びに行く連中を見て何も思わないのだろうか?
 道は混んでいたが、宮田は都内の道に熟知しているらしく、裏道を巧みに抜けて旧海岸通りに出た。そこまで来ると、車も流れている。会場のディスコがある倉庫街に着いたのが5時45分だった。完璧に日が落ちて、辺りはもう真っ暗だった。その暗闇の先に趣味の悪い、キャバいネオンの看板で飾り付けてある巨大な建物が今夜の試合会場だ。週刊誌で読んだのだが、ここは総工費14億円をかけて倉庫を大改造。7階建て全てがクラブ&ディスコになっているらしい。1階がエントランス。ワケの分からないオブジェが並んでいる。2階はバーカウンターがあって、男だけで来た連中がここでナンパしまくるらしい。3階と4階は吹き抜けのメインダンスフロア。5階はスローバラードとチークの世界。カップルが密着、イチャイチャするとこらしい(笑)。6階が会員制フロア、入会金は10万円。この頃はバブルで浮かれた連中がたくさんいたから、10万円くらいポーンと払う連中がたくさんいたのだろう。7階が多目的なイベントフロア。今夜の試合はここで行われる。
 宮田のライトバンは建物裏の関係者専用の駐車場に入った。通用口から建物の中に入ったのだが、一般のフロアは金のかかった調度品や飾りつけでピカピカなのに対し、関係者の使う廊下は薄汚れていた。納入業者が頻繁に台車を使うので、床には台車の車輪跡が付いていた。壁も台車や荷物がぶつかるせいか傷だらけだった。どんなに外面はキレイでも、舞台裏はどこもこんなものなのだろうか?荷物用のエレベーターで7階に上がった。エレベーターのすぐ横にある会議室が控え室だった。30平方メートルくらいのスペースを壁で仕切り、赤コーナーと青コーナーに分かれていた。今日の中屋は青コーナーだ。オイラたちが入ると、既に他のジムの人間がいた。宮田や佐々田は会長やトレーナーらしい男たちに挨拶をしていた。中屋は自分のバッグからムエタイパンツやタオル、ノーファルカップ(金的サポーター)を出して着替え始めた。オイラも上着をジャージに着替えた。中屋は上にTシャツ、下はムエタイパンツになった。中屋のムエタイパンツは青色でタイ語らしい文字が刺繍してあった。何て書いてあるのか?と訊ねたのだが、中屋も知らないらしい。格闘技ショップに行ったら売っていたので買ったそうだ。5回戦の選手は名前を入れたり、中には金ラメが入った凝ったデザインのモノを使う選手もいる。最近は3回戦でも自分のコスチュームに金をかける選手は多い。「金もないし、そういうのは趣味じゃないので・・・」中屋にとっては何て書いてあるのか分からない刺繍が入っているだけでもお洒落したつもりなのだろう。ノーファルカップは後でトイレに行くので、試合直前に付ければ良い。宮田は役員に挨拶に行くのか?部屋から出て行った。佐々田は中屋を椅子に座らせて、両拳にバンテージ(包帯)を巻き始めた。練習の時は自分で適当に巻くのだが、試合のときは宮田や佐々田が巻いてくれる。拳が握りやすいように包帯とテーピングでキレイに巻いていく。
 オイラは試合場を観に行った。会場は後楽園ホールを一回り小さくした感じだ。時刻はPM6時、試合までまだ1時間あるが、場内には音楽がかかっていて、たくさんの着飾った男女が踊り狂っていた。ディスコミュージックって言うの?こういう音楽を何というのか知らないが、オイラにとってはただウルサイだけの曲でしかない。会場の奥にフロアから一段高くなっているステージがあって、そこにリングが設営してあった。中屋はこんな所で戦うのだろうか。リングの周囲には観客席はなかった。リングサイドの一角には椅子が10席ほどあるだけ。ここは役員席なのだろう。会場隅には硝子で仕切られた音響席があり、中には無数のスイッチが付いたミキサーがある。特撮映画に出てくる防衛軍の司令基地のようだ。ミキサー席には色黒でスキンヘッド、サングラスをかけた若いDJ男が、ワケの分からない奇声を上げて音楽を流していた。壁際にはバーカウンターや酒類の自販機が置いてある。客は酒を飲みながら、試合を立ち見するのだろう。客の殆んどは後楽園ホールにやって来るコアな客とは対照的。キックボクシングなんて興味の無い、女とチャラチャラ遊んでいる野郎どもだ。女だって、オイラや中屋のようなダサダサの男など絶対に差別するだろう。そんな連中の前で中屋は戦うのか。毎日、汗まみれになって・・・殴られて鼻血まみれになったり・・・酷い時はドス黒く饐えた匂いがする小便を流して頑張って来たのに、こんな連中の前でデビュー戦を戦うのか。試合場を見て気分が悪くなった。おまけにジーパンにジャージ姿のオイラには場違いな所だ。オイラは控え室に戻った。
 中屋は両手にバンテージを巻き終わっていた。役員のバンテージチェックを受けて来たらしく、両の拳にはマジックでサインがしてあった。チェックを受けると、試合で使う6オンスグローブを渡される。傍らの机の上に日本製の赤いグローブが置いてあった。中屋は控え室の隅で体操をすると、軽くシャドウを始めた。試合開始まであと30分くらいだ。中屋は自分の動きをチェックするかのように、ゆったりとした調子で蹴りやパンチを出す。ワンツーから左右のローキック、左ミドルを連発で繰り出す。ゆっくりした動きだが、蹴りにはキレがあった。良い感じだと思った。しかし中屋の体から緊張という名のオーラが滲み出している。無理も無い。あと数十分後にはリングで殴りあうのだ。リングの上では相手を殺しても罪にはならない。逆に殺されても文句は言えないのだ。そういう特殊な場所にこれから立つのだ。中屋は10分ほど動いて体を温めた。軽く汗ばんだ体を佐々田がタオルで拭いてやる。オイラは佐々田にジムから持ってきた給水ボトルに水を入れて来るように言われた。トイレの入り口に冷水器があった。オイラも緊張してきた。喉が渇いたので、ボトルに水を入れた後、オイラも冷水器で喉を潤した。宮田が控え室に戻って来た。トイレを済ませた中屋は、ムエタイパンツの下にノーファルカップを穿く。宮田と佐々田が中屋の両手にグローブを付けた。宮田の指示で、中屋の体にタイオイルを塗るように言われた。タイオイルは成分は何だか知らないが、プーンとキツイ匂いのする液体だ。発汗作用があるらしく塗ると体が火照ってくる。オイラは日焼けオイルを付ける要領で、両手にタイオイルを滲ませ中屋の体に塗り始めた。中屋は「首の周りも塗ってください。」首相撲で相手に首を掴まれた時、滑って抜けやすくするためだろう。首周りにもタップリと付けてやった。佐々田は中屋の顔にワセリンを塗りこむ。キック連合の3回戦は肘打ち禁止だが、偶然のバッティングで目じり等が切れないようにするためだ。宮田は体が冷えないように、大き目のバスタオルを中屋の肩にかけてやった。戦闘準備完了である。オイラは宮田から、インターバルになったら椅子を出して給水ボトルを出すように、と言われた。時刻は7時になろうとしていた。会場の係員が呼びに来た。選手入場である。「よし行くぞ!。」宮田が中屋に声をかけた。中屋は「お願いします。」力強く答えた。