第16話 敗れざるもの

 

 試合は終了した。コーナーに戻って来た中屋はうがいをしてジャッジの集計を待つ。キック連合の試合はレフェリーと2名のジャッジが採点をする。レフェリーはジャッジペーパーを集め、自分のと一緒に役員席に提出する。勝敗はどうなるのだ?1ラウンドにダウンを取られているが、それ以外は中屋が押している。特にラストラウンドは、西神は完全にスタミナ切れを起こしていて、立っているのもやっとという状態だった。この辺が採点にどう影響しているのか?集計が終わって結果の書かれた紙が、試合終了後にリングに入ったリングアナの黒人に渡された。結果が発表される。「レディース&ジェントルマン!」また英語である。日本語で言えよ。集計結果は英語で発表された。オイラの英語の成績は5段階評価で2でしかない。普段は洋画を観ても役者の言っている事などさっぱり分からないのだが、この時だけは集中した。何と言っているのか、とにかく理解する事に全神経を傾けた。
 最初に読み上げられたのはレフェリーの採点だった。29対28で西神。中屋の28というのはダウンの分2ポイント取られているという事だ。西神の29というのは、3ラウンドは中屋が取ったためだろう。ジャッジの一人は28対28でドローだった。2ラウンドも中屋優勢と付けてくれたのか?それとも1ラウンドはダウン以外、中屋が押していたためなのか?。ダウンしているから中屋に勝ちは無いのは分かっているが、もう一人のジャッジの採点がドローなら、この試合は引き分けになる。せめて負けだけは避けたい。しかし勝負の世界は無情だった。最後の一人は29対28で西神だったのだ。英語で西神の名前が高らかにコールされた。西神は大喜びだ。まるでチャンピオンになったかのように派手にガッツポーズをして、応援団に勝利をアピールしている。応援団も大騒ぎだ。対する中屋はガックリと肩を落とす。格闘技の世界ほど、勝利と敗北が如実に現れる世界は無い。選手にとって負けるという事は、自分の存在をも否定されたと同じくらいの屈辱なのだ。特に中屋のように、キックに賭けて生活している人間にとっては尚更だ。宮田は赤コーナーに行って挨拶してくるように言った。中屋は言われたとおり赤コーナー側へ行き、西神のセコンドに頭を下げてきた。何か声をかけられていた。戻って来た中屋はリングを降りた。引き上げる中屋に周囲の客たちは冷ややかな視線を投げる。ここは後楽園ではない。客の多くはキックボクシングになど興味のない連中ばかりだ。選手に対する尊敬や敬意などはない。ボクサーなんて人種は彼らにしてみたら、社会のはみだし者。勝てばヒーローだが、負ければ惨めな敗残者だ。負けた中屋に前科者を見るような視線が集中しているのを感じた。結果は付いてこなかったけど、中屋は良い試合をしたと思う。特に最終ラウンドに見せたハイキックには勝利への執念が込められていた。後楽園でもこういう意地を感じさせる試合など中々観られるものではない。この辺の事が夜のディスコで遊んでいる連中には理解できないのだろう。中屋の後ろを歩いていたオイラは一組のカップルの会話を聞いてしまった。女が中屋を差して男にこう尋ねたのだ。「あの人、あなたより強い?」男は彼女の前で粋がってみたかったのだろう。「さぁ〜、どうかなぁ。」まるで中屋程度なら勝てるよ、と言わんばかりの口調だった。オイラはチラッと声がした方を見た。女は目が細く鼻の大きい、あまり美人とは言えない顔立ちだが、この頃流行ったワンレン・ボディコンでスラッとしたプロポーションをしていた。男の方は長髪で身長175センチ前後。高そうなスーツを着たホスト風の痩せた野郎だった。スーツごしでも貧弱な体格なのが分かる。そんなモヤシ男に中屋が負けるわけが無い。あんまり甘く見るな、とオイラは心の中で叫んだ。
 控え室に戻ると、佐々田は中屋を椅子に座らせ、宮田とグローブを外した。「スイマセン。」中屋は呟いた。宮田は「気にするな、仕方が無い。」。佐々田は、「よく頑張った。最後に見せた頑張りは素晴らしかった。また頑張ろう。」明るい口調で誉めてくれた。後で知ったのだが、宮田も佐々田も負けた選手を誉める事が多いらしい。何故負けたのかを忠告する事は容易い。しかし負けて精神的に落ち込んでいる時に言っても無駄なのだ。逆に勝った選手には小言を言う事が多いらしい。こうすればもう少し楽に勝てる、もう少し頑張ればKO出来た。勝って兜の緒を締めよ、というやつだ。人を育てるというのは大変な事なのだろう。タイなどでは試合は公営ギャンブルだから、選手には多額の金が賭けられている。だから負けたりすると控え室で会長にブン殴られる事もあるらしい。
 佐々田はオイラに中屋をドクターチェックに連れて行くように言った。控え室の隣が臨時の医務室になっていて、ドクターが待機しているらしい。試合の終わった選手は勝敗に関係なくチェックを受けなければならない。中屋と隣の部屋に行ったのだが、先客がいるようだった。第一試合だったから先客は西神か。廊下にあるベンチで並んで座った。オイラは負けた中屋に何と声をかければ良いのか分からなかった。佐々田のように上手い言葉が見つからない。その時に思い出したのは試合後、西神のセコンドに声をかけられていた事だった。何と言われたのだろう?「スタミナあるね。5回戦だったら(西神は)負けていた。」と言われたそうだ。確かに西神は3ラウンドでガス欠だったから、5回戦なら中屋が逆転で勝っていただろう。廊下のベンチで待たされたのは僅かな時間だったのだが、負けた中屋と並んでいるのは息が詰まった。何と言えば良いのか?どう接するのが適当なのか?経験のないオイラには想像も付かなかったからだ。その時に部屋のドアが開いた。西神がトレーナーに連れられて出てきたのだ。部屋の中にいるドクターに馴れ馴れしい調子で「・・・俺はチャンピオンになりますよ!」と叫んでいた。ベンチに座っている中屋を見つけると、「あっ!どうもありがとやんした。」“ありがとうございました”、と言っているつもりなのだろうが、酔っ払っているような状態でろれつが回っていなかった。中屋の攻撃はローキック主体だから、3Rのハイキック以外頭は殆んど叩かれていない。試合に勝って興奮しているのだろう。騒々しい男だった。見かねたトレーナーに引っ張られるように自分の控え室に消えていった。オイラと中屋は医務室に入った。普段は会議室になっているのか、大きなテーブルと椅子が置いてある。ドクターは30代半ばくらい、銀縁メガネをかけた痩せた男だった。オイラはドクターに「1ラウンドにダウンしました。」。佐々田からドクターに伝えるように言われていたのだ。しかし診察は簡単なものだった。胸や背中に聴診器を当てたり、血圧、脈拍、ペンライトを目に当てて瞳孔の反応チェック。吐き気や頭痛の有無、等の問診。特に問題はないらしく数分で終わった。控え室に戻った中屋はシャワーを浴びて着替えた。
 試合場ではまだ試合が行われているので、佐々田、中屋、オイラの3人は残りの試合を観に行った。宮田は雑用があるらしく役員のところに行ったらしい。この日の興行は中屋の試合も含めて5試合。全て3回戦である。試合場では第4試合が始まったばかりだった。オイラたちは並んで試合を観たのだが、ついさっきまでここでデビュー戦を戦った中屋は何を考えているのだろう。何も言わないけれど、本当は口惜しくて仕方が無いはずだ。西神の台詞ではないが、チャンピオンになりたくて東京に出てきた中屋にとって、負けるというのは夢が一歩遠のくという事だ。この日の中屋は口数が少なかった。普段もそれほど喋る方ではないが、いつにも増して無口だった。全試合終了後、控え室に荷物を取りに行くと、宮田が戻って来た。来た時と同じように、宮田の車に便乗して引き上げた。宮田と佐々田はこのまま車で、中屋を送っていくらしい。オイラは品川駅で降ろしてもらった。時刻は午後10時、疲れた。オイラが試合をしたわけではないが初めてのセコンドは緊張した。しかし試合をセコンドと言う立場から見る事が出来た、というのは勉強になった。改めて試合の厳しさ、プロのリングの怖さみたいなものを実感する事が出来たのは収穫だったと思う。勝つ事は出来なかったけど、今日の中屋は勇敢だった。あの根性を見習いたい。次はオイラの番だ。初心者向けのアマチュア大会だが、一回戦だけでも・・・勝ちたい。勝てるだろうか・・・自信はまったく無い。いやダメだ・・・頑張らないと。出るのなら当然・・・優勝だ!土曜の夜、電車の中は酔っ払いやカップル、仲間同士で遊びに行くのか?それとも帰りなのか?楽しそうな連中で一杯だった。そんな奴らに揉まれて、オイラは帰宅した。