9話 聖地・後楽園ホール

 

 1989年1月8日(土)PM5時半。オイラはJR水道橋駅に降り立った。駅を出て後楽園方向に向う。外堀通りにかかる歩道橋を渡り、東京ドームシティに入る。昨年出来たばかりの東京ドームを横目に後楽園ホールに向う。後楽園ホールは黄色いビルの隣、青いビルの5階にあるイベントホールだ。1962年に出来たこの会場は、プロレス、総合格闘技、ボクシング、そしてキックボクシングの興行に頻繁に使われ数々の死闘、名勝負を生んできた格闘技の殿堂だ。格闘技以外でも日本テレビ系のバラエティ番組の収録にも使われる事が多い。TVなどで観ると広く見えるが、実際のホールは案外狭い。立ち見客も入れて2000人も入れば超満員だ。今日の興行は新春興行らしく、フライ級からミドル級まで全6階級日本タイトルマッチという豪華カード。5回戦はタイトルマッチ6試合だけで、他は全て前座3回戦が5試合。ライト級の三沢の試合は5試合目。3回戦の最後の試合だった。佐々田の話では、今日の試合に勝てば三沢は5回戦に昇格するそうだ。5回戦に上がるには明確な規定はない。他団体は知らないが、日本キックボクシング連合では、ジムの会長が認めた実力があれば昇格できるらしい。3回戦とはいえ、マスクも良くデビュー以来3連勝負けなしで非凡な才能を見せる三沢は、スター候補生として団体の期待もかかっているらしい。
 オイラは実際にホールに行くのはこの時が初めてだった。ホールのある青いビルの入り口前には、人相の悪い数人のダフ屋の男たちが「券あるよ。窓口にはもう券ないよ。」声をかけてくる。宮田からチケットを貰っていたし、佐々田から「ダフ屋は無視して大丈夫。」とアドバイスされていたので、オイラは真っ直ぐエレベーターに乗って5階へ上がった。佐々田に聞いていなかったら、気の弱いオイラでは捕まって券を買わされていただろう。それでも最近のダフ屋は大人しくなったそうだ。昔はエレベーターホール1階の正規の窓口前に陣取り、窓口で券を買おうとする客に強引に売りつけていたらしい。これでは女性やオイラのような気の弱い客を呼ぶ事が出来ない、ということでキック連合は1階エレベーターホール内に見張りの人間を数人立たせて、ダフ屋を締め出したのだ。その甲斐あってか、暴力団関係者風の客が激減した。代わりに女性や一般のキックファンが増えた。キック連合には暴力団の息の掛かっているジムは加盟していないそうだ。そのため団体旗揚げ当時は、チケットをさばくルートが確立されていないため赤字が続いたらしい。しかし女性が気軽に会場に来られるよう企業努力をした成果が現れて、現在は毎回超満員になっている。
 入り口でチケットを切ってもらい、パンフレットを貰った。その日行われる対戦カードや出場選手の戦績、後は広告だけのチラシに毛の生えた程度のものだが、キックファン(マニア)にとっては貴重な資料だ。大切に保存しているオタクも多い。現在はどこの団体も有料(1000円前後)で、その分カラー印刷で装丁も豪華になっている。格闘技雑誌で名前を見かけるライターが記事やコラムを書いていたりして小冊子のような作りになっているが、この頃はまだチラシ程度のものが主流だった。入り口を通ると正面の壁にはプロボクシングの各階級の歴代日本人世界王者、現役のOPBF(東洋太平洋)王者と日本王者の写真が飾られている。その前には報道や来賓関係の受付。受付の反対側にはスタッフが売店の設営準備をしている。休憩時間にここでムエタイパンツや、パンチンググラブ。キック関係の書籍やビデオを販売するのだ。階段を上り会場内に入る。前述したように後楽園ホールはそれほど大きくはない。その上、すり鉢状になっているので、会場のどこにいてもリングが良く見える。4本ロープに6メートル四方のリングが会場中央に鎮座している。「ここでやるのか!」試合場の・・・特に後楽園のリングは特別だ、と言う選手は多い。そういえば中屋も、「田舎にいると、TVや雑誌でしか情報が入らない。TVの中継は殆んどが後楽園ホールからだから、東京といえば後楽園。いつかは自分もそこに立ちたい!そう思って出てきました。」。今度のデビュー戦はホールではないが、いつかはこのリングに立つ事が出来るだろう。そして勝ち続ければ、ここでタイトル挑戦もありえない夢ではない。
 試合開始は6時からなので、まだ客の数は少ない。第1試合に出るらしい選手が会場隅の通路でシャドウをしているのが見えた。オイラは北側の真ん中、前から6列目のベンチ席に腰を下ろした。パンフレットを開く、今日の三沢は青コーナー。対戦相手は4戦3勝1敗、3勝は全てKOと書かれていた。かなりの強敵だ。この対戦相手も今日の試合を最後に5回戦に上がるのかもしれない。そんな事を考えていたら、「こんちは。」声をかけられた。顔を上げると、目の前に中屋が立っていた。中屋は控え室の三沢の所に挨拶に行ってきたそうだ。控え室は通常、赤と青のコーナーごとに部屋割りされている。王者クラスなら個室だったり、大崎ジムから大勢出場していれば、ジムごとに分かれたりするが、今日は大崎ジムからは三沢だけなので、他ジムの選手と相部屋だ。佐々田が三沢のバンテージを巻いていた。宮田は役員のところに行っているらしく会わなかったそうだ。佐々田の話では、今日の三沢の相手はグローブ空手の大会で優勝経験があるらしい。
 キック連合は旗揚げ当時から底辺拡大を狙って、定期的にアマチュアのグローブ空手の大会を開いてきた。空手着にグローブ着用、試合時間3分でのトーナメント戦を数ヶ月に1度ペースで開いてきた。他にもワンマッチ大会を月1ペースで行い、人材育成に励んできた。アマチュア大会はプロへの登竜門的な位置づけだけではなく、他団体にも門戸を開いているので、キック連合傘下のジム以外の人間でも参加可能。顔面攻撃を認めた空手道場やフリーで活動している空手家も出場してくる。開催当初の参加人数はそれほどでもなかったが、現在は出場人数が多いらしく、アマチュアとはいえ優勝するのは至難の業。フルコン空手の著名選手が出ても、途中敗退も珍しくないくらいレベルが高い。スター候補の三沢との対戦をOKするくらいだから、相当な実力者なのだろう。今日の三沢の試合はマニアの間では、「裏メイン(イベント)」と言われているらしい。
 PM6時、第1試合の時間になった。客席の8割は埋まっている。前座の第1試合から来ている客は、選手の身内や勤め先、学校の仲間が殆んどだ。他にはディープなキックマニア(オタク)。マニアは大抵独りで来ているから、すぐに分かる(笑)。身内連中は応援している選手の試合が終わると、帰ってしまうのが殆んど。普段はキックボクシングなんて興味もない。知り合いが出るから応援に来ただけ。これから近所の居酒屋で試合を肴に祝杯か?負けた時は残念会でもするのだろう。彼らが帰った所は、座席がゴソっと空く。立ち見券で入場したマニア(オタク)連中がサーっとやって来て座ってしまう。慣れたものである。2〜3試合終わると、グループで来ている連中の姿が目立つようになる。こいつらは実際にジムや道場に通っている、いわゆる「やる側」の奴らだ。人の試合を観て勉強しようというのであろう。「やる側」の連中には図々しい奴もいて、立ち見券で入ったクセに、開いているリングサイドに座ってしまう豪傑もいるらしい。勿論、ホールの係員が見逃すはずもなく、発見次第追い出されてしまう。闘いに惹かれてホールに集まる人間には妙なのが多い(笑)。
 この日の試合は第1試合から荒れた。第4試合までの内、3試合が1〜2ラウンドでのKO決着だった。時計を見るとまだ6時30分だった。試合は早く終わって欲しいと考えている客は多い。打撃系格闘技の魅力は壮絶なKOシーンだし、独りで来ているオタク客を除いて、みんな全試合終了後は水道橋駅近くの居酒屋で仲間と一杯やって帰りたいからだ。一時間程度、飲んで帰るとして、遅くとも9時くらいまでには終わって欲しい。客の大半はそんな事を考えている。三沢は3戦3勝(3KO)。対戦相手は3勝1敗(3KO)。両者とも勝ちは全てKOだ。この試合もKO必至。3回戦とはいえ注目は高いらしく、リングサイドに陣取る取材のカメラマンの数もタイトルマッチ並みに増えた。
 ホール内にリングアナの声が響いた。「次の試合に出場します。三沢選手に激励賞が届いております。」激励賞は選手へのご祝儀だ。選手の後援会、勤め先や知りあい等の有志がお金を包んで出してくれる。人気選手になると、激励賞だけで数十万になるなんて噂を聞く。3回戦で激励賞の出る選手は少ない。中にはハクを付けるために自分で自分に、架空の会社名で空っぽの祝儀袋を出したりすることもあるらしい。何れにせよ、社交的で付き合いの多い選手でないと貰えないのだ。どこの世界も人付き合いは大事という事か。対戦相手にも激励賞が二つ出ていた。一つは勤め先なのか?土建会社。もう一つは飲み屋さんだった。常連なのかな?。三沢の方は何と10軒も出ていた。大学の空手部の他、流行りのカタカナ文字の会社が数軒。スナックもあった。まだ学生のはずなのにどうして?と思うくらい。そういえば、青コーナーに近い、南側や西側の客席には三沢の応援団がたくさんいた。三沢は周囲から愛されているようだ。ジムでの三沢は明るくて、オイラたち下っ端にも気さくに声をかけてくれる、面倒見も良い爽やかな男だった。彼を慕う練習生は多い。オイラも三沢はキライではない。良い先輩だ。しかしどうも苦手だった。この人の前にいると、自分が卑小な人間である事を思いしらされるからだ。キックの実力は勿論、明朗で快活で、何より社交的で女の子にモテモテ。オイラとはあまりに違いすぎる。
 リング内にリングアナの衣笠さんが入る。衣笠さんはがっしりした、年齢の割りに大柄な初老の男だった。以前、宮田に聞いたのだが、若い頃は役者をしていたそうだ。役者といってもいわゆる大部屋俳優というやつだ。通行人とか殴られ役といった、ストーリーにはあまり絡んでこない軽い役を専門にしていた。言われてみれば、浅草で観たヤクザ映画に出ていたような気がする。衣笠さんはキック連合の名物リングアナだった。大柄な体にタキシードが良く似合う。体格の割に高い声、ハリのある良く通る声質で「両選手、リングに入場でございます!」いよいよ、三沢の試合が始まる。