禁断の・・・小百合サマでじょんじょろりん!!7

 

今月NECOの『小百合シアター』は『悲しき別れの歌』。この映画を観たのは、約25年前。千葉テレビだったかな。原作はお馴染み、石坂洋次郎。当時、新潮文庫?、角川文庫?で読んだ記憶があります。作品の出来は・・・まぁ面白いかな。しかしこの映画の小百合サマはオイラは好きではありません。勿論、無料・・・いや有料でも小百合サマなら、十字を切って「押忍!お願いしますぅ!!!」なのだが、この映画の小百合サマは、そこいらのアマチュア女同様に、オイラを差別するだろう。そういうアマチュア女特有の、厭らしさプンプンの女を好演していたのだ。石坂洋次郎の小説には、女のそういう部分を賛美する表現が多い。例えば『風と樹と空と』の主人公・沢田多喜子は友人の女の子に「女にはそういうズルイ部分が必要なのよ」という台詞があった。『若い人』だったか、『暁の合唱』だったか忘れたが、「女は、みなそういう企みを持って生きている」という表現があった。
 これを読んでいる人・・・少なくとも男としてある程度恵まれた人は、オイラのこの文章を読んでも意味が分からないと思う。「アマチュア女って何?」「女の厭らしさって何だ?」理解できない男は幸せな野郎である。おそらく無料の女に不自由しない、自分の遺伝子を受け継ぐ生き物を産ませる女をゲットしている野郎なのだろう・・・羨ましいぞ、この野郎!!
 まぁ、それはさて置き。『悲しき別れの歌』である。オイラ的には小百合サマの幼馴染みの松山英太郎の演じた「矢吹健次郎」に感情移入してしまう。松山英太郎は小百合サマが好きなので、何かと理由を付けては小百合サマのところにやって来る。しかし経験不足のためかアプローチが下手な上に、あまり気前も良くない(タダでさえモテないのに、それでは益々モテなくなるゾ)。小百合サマも、英太郎が自分に好意以上の物を持っていることは百も承知している。英太郎の気持ちを受け入れる気もないくせに、自分の女としての魅力を確認して楽しんでいるフシがある。そのうちに浜田光夫という恋人が出来て、英太郎とのことは自然消滅してしまう。
 浜田光夫の演じた風見信太郎という男は、エエカッコしいの嫌な男。いや熱血漢で良い男なのだ。小百合サマと付き合えるのも当然のナイスガイなのだ。しかしこういう良い奴を見ると、自分の卑小さを思い知らされるから嫌なんだよね(ヒガむな、この腐れオタクが!)。映画の後半、松山英太郎は幼馴染みの浜川智子とデキてしまう。浜川智子って、オイラ好きなんです。渡哲也の『反逆』でも童貞の同級生に無料でやらせてたし、性に奔放な女性役を演じる事が多いから、王者のオイラでも無料でやらせてくれるかも、なんて妄想をしてしまう。でもこんな天使が存在するわけないし、いたとしても王者のオイラでは相手にされないだろう(涙)。
 この『悲しき別れの歌』は原作もしっかりしているし、監督は手堅く西河克己。小百合サマはキレイだし、面白い作品。オススメの映画です。

 映画では浜田光夫という恋人が出来たために、松山英太郎との仲は自然消滅してしまう。現実はこれでオシマイである。王者のオイラなどは何度もこのパターンで苦汁を舐めてきた。初めてこの映画を観た時、いや原作を読んだのが先だから読んだ時、こういう女の厭らしさに嫌悪感を持ちました。普通の男はそういう女の厭らしさに気が付かない。女から見ると、こういう鈍感な男は騙しやすい上に、自分がイニシアチブが取れるから安心。だから普通の男には生涯で最低一人の女が出来る。モテる男は厭らしい部分を知っていても、気が付かないフリが出来る。だから生涯で幾人もの女と付き合う事が出来るのだ。
 モテナイ男・・・いや違う。王者のオイラは女の厭らしい部分・・・浅はかな部分をお見通し。女からすれば、自分のやっている事を見透かしている男ほど嫌な男はいない。モテナイのは当然だ。そういやオイラは、この映画の松山英太郎を観て、ケチケチしてはいけない事を学びました。それでもモテないんだから、さすがは王者でしょ!(ってアホか)。

 

昨夜のNECOの放送を観ました。25年近く前にTV鑑賞一度だけだったのにも関わらず、印象の強い作品だったので、結構細かい部分も憶えていました。25年前は小百合サマが良かったのですが、今観直すと、やはり浜川智子の方に惹かれます。理由は・・・この作品の浜川智子は『渡り鳥』『流れ者』の白木マリとダブるからです(青春野郎第20話参照)。