第8話 三万円を叩き出せ

 

 1989年元旦。世間は完全に正月モードだ。街はひっそりしている。しかし大崎ジムは違っていた。ジムの中は熱気でムンムン、試合の近い選手がいるためにジムは開いているのだ。正月明け、1月7日土曜日に大崎ジムの加盟しているキック団体・日本キックボクシング連合の新春興行が後楽園ホールで行われる。この大会にはジムの先輩の三沢が出場する。中屋のデビュー戦はこの大会ではない。1月28日土曜の夜、場所も後楽園ではない。当時、芝浦にあったディスコである。この頃はまだお台場は開発途上であった。レインボーブリッジもゆりかもめも無い陸の孤島状態だった。会場となるディスコはアミューズメントパークとでもいう巨大な施設で、中にはお立ち台と呼ばれるステージがある。当時流行ったボディコンスーツを着た女たちが、このお立ち台の上で羽根の付いた扇子を振り回して踊り狂っていたのをニュース映像で観た事がある。この頃、キック連合は月に1度ペースで芝浦のディスコで興行を行っていた。フロア中央部にリングを設営、そこではキックの試合だけではなく、若手タレントの漫才、歌手の歌や踊りなどが行われる。客層も後楽園とはまるで違う。後楽園まで足を運ぶ客はコアなキックファンが多いのだが、ここに集まる客はキックとは無縁の若い奴らばかりだ。組まれる試合カードは若手選手のものが数試合。団体としては新人育成という位置づけだったのかもしれない。それでもタマにタイ人や王者クラスのエキビジョンマッチが組まれたりしていた。
 中屋がジムに入門してきたのが88年の秋頃だから、キック歴はまだ半年もない。彼の場合は空手のキャリアがあるし、最初から完全プロ志向だから早くデビューしたかったようだ。ボクシングの世界ではプロの試合に出るにはプロテストを受けてライセンスを取得しなければならないが、この頃のキック連合にはテスト制度がなかった。試合に出られる実力がある、と会長が判断すればOKだったのだ。事務局に出場申請を出して、次回興行で釣り合う対戦相手がいれば試合が組まれるというシステムだった。試合が組まれるパターンには予定していた選手が怪我や病気で出られなくなり、試合数日前にいきなりオファーが来る、ということもあるらしい。佐々田に言わせると、キック創世記にはジムの同僚選手の応援に行ったら、来るはずのタイ人が来られなくなり、いきなり試合に出させられる、なんて事も珍しくなかったそうだ。現在のキック界ではどこの団体もプロテストがあるが、89年頃は一部の団体がテスト制度を導入し始めたばかりだった。キック連合は複数のインディー団体で構成された寄り合い所帯。元々は独立してやっていたのだが、それでは選手層も薄いし定期的に興行を打つ体力も無い。そこで『団結&統一!』のスローガンで85年頃にスタートした。興行の度に各階級のランキングも整備され、王者も認定。スター選手も何人か生まれて後楽園の興行は毎回盛況となっている。しかしキックの歴史は分裂と統合の繰り返し。この勢いもどこまで続くか分かったものではない。
 中屋は第1試合に出場するらしい。フェザー級(57.15Kg以下)3回戦。相手は1戦1勝(1KO)らしい。普段の中屋の体重は練習後で60kgを切るくらいだから、減量の必要はない。通常時60Kgを切っているのならバンタム級(53.52Kg)まで落とすのが普通だが、中屋はまだ17歳。成長期なので無理な減量はしない方が良い、というのが宮田の方針だった。プロの試合だから当然ファイトマネーが出る。とはいえデビュー戦だし、マイナー競技のキックボクシングでは5回戦に上がっても幾らも貰えないのが現実だ。前座だと3万円が相場だが、現金で支給されるのは珍しい。たいていは入場券で支払われる事が多い。選手は入場券を知り合いに売って金に換えるしかない。友達の多い奴は良いのだが、オイラのような孤独なオタク野郎だと、買ってくれる人はいないので一円にもならないだろう。今回のディスコでの興行にはスポンサーが付いているらしく、ファイトマネーはチケットではなく現金で支給されるらしい。詳しいことは知らないが、この頃はバブル絶頂期。景気の良いスポンサーがたくさんいたのだろう。プロスポーツでも野球のようなメジャー競技だと年俸が数千万〜億単位で貰っている選手が多いが格闘技、それもキックボクシングでは選手一本で生活している選手は殆んどいない。一般マスコミの注目も少ないので、プロなんていうのは名ばかりでしかないのが現実だ。そう考えるとプロ野球選手は本当に恵まれていると思う。
 デビュー戦に向けて、中屋の練習には充実したものがあった。シャドウボクシングを3〜4ラウンドして体を温めるとパンチのみのスパーリングを3ラウンド。日によってはスパーの代わりにスネにサポーターを付けて蹴りありでマスボクシング。これは通常のスパーリングとは違い、ガンガン打ち合ったりはしない。サポーターをしていても本気で蹴り合っていては怪我をしてしまうからだ。あくまで距離やタイミング、試合感を養うためのものだ。それが終わるとサンドバッグを3ラウンド。スパーリングは体への負担が大きいので毎日は行わない。大崎ジムでは一日おきと言うパターンが多い。ジムによっては毎日のようにスパーをする所もあるが、それでは試合までに潰れてしまう可能性がある。精神的にもキツイ。スパーリングのない日は佐々田がキックミットを持ってくれた。中屋の練習は佐々田がメインで見ているようだった。宮田一人では選手全員の面倒は見切れない。二人で担当を決めているようだ。
 年末年始とはいえ都内の風景は日曜祭日とさほど変わりはしない。開いている店も多い。それでも休みなのだから、無理して練習に来る事はない。試合の決まっている選手はジムに来るのは当然だが、他の選手、練習生も集まってくる。帰省したり、旅行に行く者は少ない。キックなんてやる奴の多くはライフサイクルが一般人と違うのか?ジムには結構な人数が汗を流していた。ミットを持つ佐々田が冗談交じりに「お前ら、行くとこ無いのかよ!」怒鳴っていた(笑)。オイラも行くところなど無かった。友達のいる奴はクラスの仲間とスキーに行ったり、彼女とデートなんていう羨ましい奴もいるようだ。いじめられっ子のオイラには友達はいない。ジム以外で人と関わることも少ない。だから休みの日でもここに来てしまう。キックをやる前はどこにも行くところが無かった。休みの日は金も無いのにアメ横や秋葉原をフラフラ。神保町で立ち読みするしかする事がなかった。ちょっと小銭があると、浅草の映画館で邦画ヤクザ映画を観ては時間を潰した。練習はキツイがジムに来れば誰かいる。宮田や佐々田や中屋の他、誰かしらいる。挨拶程度だが人と会話をする。それだけでも楽しかった。更にサンドバッグを蹴ると気持ちが良かった。ストレス解消!ってやつだ。もちろん本当に解消するわけではないが、汗をかいている間は一瞬でも現実を忘れられた。ジムは中屋や三沢のような本気モードの選手たちの場所だ。しかしオイラのような居場所のない連中の集まる場所でもある。ここで人と接触することを憶えて社会復帰?していく人間も多い。苦しい練習に耐え人と殴りあう事で、人間関係を憶えていくのだろう。そう考えると、ジムという場所は学校では教えてくれない事を学べるところなのかもしれない。
 サンドバッグを蹴り終わったオイラに中屋が声をかけてきた。「走りに行きませんか?」JR五反田駅近くの高台の住宅街に一直線の坂道があるらしい。路地も無いので車や歩行者が飛び出してくる心配はない。長さも100メートルくらいなので坂道ダッシュをするには丁度良いそうだ。最近の中屋はここで坂道ダッシュを10本やっているらしいのだが、独りだと手を抜いてしまうので一緒に走ろうというのだ。朝のロードワークはダラダラ走るだけなので、ダッシュはやっていない。オイラは付き合うことにした。佐々田に「走って来ます」、と声をかけ二人で外に出た。中屋の言う坂道は東五反田にある高級住宅街にあった。ジムから走って10分くらいの距離にある。碁盤の目のような街並みなので直線の坂道が五本、並んでいる。この五本の坂道全てを2回行って降りれば計10本になるというわけだ。坂道には誰もいなかった。確かにこれはダッシュをやるには丁度良い。坂道の頂上に路地があるので、手前で減速、停止すると申し合わせて「よ〜いドン!」。中屋は早かった。オイラよりも全然早い。坂道の頂上に付くまでに2〜3メートル差をつけられた。それでもこの坂道ダッシュは気持ち良かった。1本走るだけでバテバテだが、風を切っている感覚があった。体にキレが出ているのを実感する。昔は体育の授業で走らされるとこういう感覚は無かった。学校は嫌いだし、授業なんてもっと嫌いだった。集団行動は苦痛でしかない。
 10本何とか走り切る。息もキレギレである。なるほど、これでは確かに独りでは手を抜いてしまうだろう。帰りは軽くジョギングしながらジムに帰る。帰る途中、三沢の話になった。来週は三沢の試合だ。中屋は観に行くそうだ。先日、宮田がチケットをくれたのでオイラも行くつもりだった。中屋は自分の試合に備えて会場の雰囲気に慣れておきたいそうだ。場所は違うが、少しでも試合場の空気に触れていたいという中屋の気持ちは理解できた。