第39話 聖地登場!全てがここから始まった |
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日活撮影所は京王線布田駅から布田南通りを多摩川方向に徒歩約20分ほど歩く。T字路の突き当たりに出るのでこれを左折。数分歩いた左側にある。日活のHPによると総面積は27000平方メートル。9つのステージ、スタジオセンター、デジタルスタジオ等、映像製作の機能が完備したわが国で最も優れた撮影所(だそうだ)。入り口を入るとすぐ右側には1975年に開校した専門学校日活芸術学院もある。撮影所が建設されたのは製作を再開した1954年。写真を見れば分かるが現在の撮影所周辺にはマンションが多い。かつてはマンションのある場所も全て撮影所だったというから驚く。東洋一と言われていたのも納得できる。現在の撮影所周辺はベッドタウン(死語?)化して普通の住宅街。家々の間に昔の名残なのか畑が少し残っているという典型的な郊外の風景だ。しかし50〜70年代は家の数も少ない田舎町だったと思う。オイラが子供の頃(昭和40年代)、親戚がこの近くに住んでいて何度か遊びに来た事があった。あの頃は調布の駅も駅ビルみたいなのもなかった。布田や国領の駅も静かで近くには雑木林があったりした。小学生の頃、昆虫採集やセミ取りをした記憶がある。そんな田舎町に東洋一の撮影所があって、中では裕次郎やアキラが暴れまくっていた時代があったんだよナ。周囲のマンションは70年代以降、経営不振の日活が撮影所の一部を売却して建てられたもの。この辺りの様相が変わりだしたのもこの頃からだと思う。 “撮影所祭り”は3日間ほど撮影所の一部を一般に開放、中では日活映画の上映やイベント、関連ムックの即売会等が行われた。スタジオの一つにスクリーンをひき,椅子を並べ日活映画が上映された。上映された作品はジャンルごとに分けられていたと思う。このとき観たのは『黒い賭博師』、『黒部の太陽』、他には赤木圭一郎の作品も数本観た気もするのだが、翌年の『赤木圭一郎を偲ぶ会』主催のイベントでも観ているので、どちらのイベントで観たのかハッキリしない。 |
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当時の撮影所は入り口の位置も現在と違って2枚目の写真、布田南通り沿いにある“調布流通センター”の辺りにあったと思う(違ってたらゴメン)。この頃は撮影所の周囲がマンション化されていなかった。全て撮影所だったから現在と比較にならないくらい広かった。1枚目と3枚目の写真に写っているマンションも全て撮影所だったのヨ。食堂の前には芝生があって、その近くには時代劇のオープンセットがあって見学が出来た。このセットには池もあった気がする。この池の近くにステージを組み、何故か円谷プロの怪獣ショーをやっていた。登場する怪獣は忘れたが、ヒーローはウルトラマンタロウだった。司会のお姉さんが怪獣に襲われるのをタロウが助ける、という学芸会レベルの芝居。しかしショーの直前にオイラは見た。舞台の袖で役者がタロウの着ぐるみを着たままお姉さんのお尻を触っていたのを!子供の夢を裏切るなよ、と言いたい。おそらく芸術学院辺りの学生がバイトでやっていたのではないかな?(あくまで推測)。しかしタロウの格好のままセクハラしてたのは許せん!!(笑)。他に憶えているのは、食堂前のメインストリートにテント村を作りグッズの即売会をしていた事。売られていたのはトニーや裕次郎のレコードやカセットテープ。写真集の他、映画ポスターや実際に撮影に使用されたシナリオであった。レコード、テープや写真集は定価だがポスターやシナリオはタダに近い値段だった。ポスターは買わなかったので憶えていないがシナリオは一冊50円で売られていた。現在、当時のシナリオは神保町の古本屋で1冊3000円前後が相場だ。それが50円。タダみたいでしょ。おそらく処分品扱いだったのではないかな。日活撮影所は日活オタクのオイラにとっては聖地のような場所。初めて来たのでもう興奮した思い出がある。期間中は毎日通った。そして会場を隅から隅まで見て回った。トニー事故死の現場をはじめて見たのもこの時。合掌です。 |
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左の写真が“撮影所祭り”で購入したシナリオ。廃棄処分になるのか?大量のシナリオが50円程度で売られているという、現在では考えられない状況でした。今これやったらマニア(オタク)が殺到してパニックになるんじゃないの?(笑)。実際に撮影に使用されたものだからページによってはボールペンで印がしてあったり、落としたのか?泥が付いていたりというリアル?な状態でした。『探偵事務所23吼えろ機関銃』というのはご存知、鈴木清順監督の傑作『探偵事務所23くたばれ悪党ども』。『炎の中の慕情』は裕次郎のムードアクション『夜霧の慕情』。『俺の拳銃は歌をうたう』は『夜の勲章』。映画とシナリオのタイトルが違っている作品って結構あるようだ。シナリオに書かれている配役も実際と違っていたりする。例えば『俺の拳銃は・・・』に小泉郁之助の部下・佐川役で高品格と記載されているのだが実際には別の役者(名前不詳)になっている。どういう事情で代わるのか知らないが脇役だから現場レベルで変更になったりするのかもしれない。 2度目に来たのが78年2月の『赤木圭一郎を偲ぶ会』主催のイベント。やはり事故死現場見学。映画上映。この時観たのが『打倒(ノックダウン)』、『海の情事にかけろ』、『幌馬車は行く』、『赤木圭一郎は生きている・激流に生きる男』だったかなぁ?どうも“撮影所祭り”とゴッチャになってハッキリしません。このときも テント村のような売店が開設されグッズ関係が売られていた(と思う)。この時購入したのはトニーのミュージックテープ『赤木圭一郎の世界』。それと偲ぶ会編集の書籍『還ってきた海の皇子』でした。 |
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しかし今から考えると77〜78年というのはトニーが亡くなって16〜17年。日活がポルノ路線に転向して6〜7年しか経っていない。中年になったオイラにとって16〜17年という時間は昨日の事のような気がする。 もちろん全盛期の頃オイラはまだ生まれていないけど、今から16〜17年前の記憶ってあるもんね。あの頃の中年にとってトニーが生きていた頃の時代って、オイラにとっての80年代の感覚だったのかぁ。このイベントの時の撮影所は今よりも確実に日活全盛期に近い姿だった。そう考えるとちょっと感慨深いものがある。この時、布田駅からテクテク歩いたのだが、当時は大部屋あたりの役者さんや役者の卵みたいな人もこの道を歩いたのかな?、なんて想像(妄想)したりしました。 “偲ぶ会”のイベントの時、食堂で当時を知る役者さんがゲストで登場。トニーの思い出話を語ってくれた。この時は日活映画を観始めたばかりだったので、誰であったのか分からなかった。『霧笛が俺を呼んでいる』の最初の方でバー35ノットでの乱闘シーンにいた人というのは聞いていたのだが、名前が分からなかった。ずっと心に引っ掛かってモヤモヤしていたのだが偲ぶ会の掲示板に質問の書き込みをしたら会員の方が答えてくれた(ジョージ海野さん@感謝!)。その人は八代康二氏(大正12年6月20日生まれ)。『霧笛が・・・』以外でも『俺の血が騒ぐ』、『拳銃無頼帖明日なき男』等にも出演されていた。この時語っていた話はほとんど記憶にない。一つだけ憶えているのは撮影に使用する銃の準備をトニーと一緒にやった事があるという事だけ。この時の八代氏の服装はシャツの上にジャッケットを羽織り、胸元からスカーフがチラリと見える洒落たファッションだったと思う。この時の八代氏は55〜56歳くらいか。随分オシャレなオジさんだな、さすが役者さんは違う!、と一人感心した記憶がある。 日活撮影所データ |
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